プロローグ 〜冬の終わり
──愛しいあなたのあまりにひどい仕打ち。それならあなたの国の人たちを毎日千人殺しましょう!
──ならわたしは、毎日千五百の子どもに産屋を建てよう! これっきりだ、妻よ!
闇穴に響く重い岩の音。桃の香をのせた風が一筋吹きぬけ、閉じた。残されたのは永遠の愛と涙。
窟のなかを響く声、最期に聞いたあなたの声。あまりに酷く悲しい、けれども逢いたい。また逢いたいあなた。
わたくしのことを覚えていて。いつまでも。あなたに逢いにいく、その日まで──。
「妙向尼様、京の空が赤い……」
「ほんに、我が息子たちは無事か」
比叡を仄明るく縁どる紅の色、立ち昇り立ち昇り天を焦がす。時のからくりが螺旋を描けば黄泉路の扉が開く。あの方の温もりが消えていく。湖畔に風が舞い、またあの方が
去っていく。わたくしを置いて。
死を纏いつかせて、星空のしたを風が通り過ぎていく。時がまわる、まわりまわって何処へいく──。
あなた、大切なあなた。置いていかないで。あなたと添い遂げたい。あなたに逢いにいく、何度でも──。
ハッ。
一瞬、冷たい風が頬を突いた。
鞠香は無意識に、指を扉へ這わせた。ひんやりと濡れた感触が、やっと満員電車へと引き戻してくれる。背中には、ちゃんと人いきれを感じる。
正体不明の想いは、今日もなんの前触れもなくやってきて、時に厳しく身を裂くように、時に切なく心の臓を冷やし、また突然去っていく。
アナウンスが、降車駅を告げて間もなく、再び扉が開いた。
指を中にこぶしを握り、しゃんと背を伸ばして、平静を装って踏み出す。いつも、しばらく変な気分が抜けない。家へ帰れば、いつの間にか忘れてしまうのはわかっているが、それまではこの想いに囚われるだろう。いつものように。
知らず知らずため息を漏らす鞠香であった。
いつからこんな白昼夢を見るようになったのか、母親が再婚した頃からだったろうか。あの生活がようやく終わり、気が抜けて無意識下の感情が溢れてきたのだろうか。無意識というしかない、感じたことのない切り裂くような傷みや甘く安らかな気持ち。うっすら見えるような見えないような、洞窟のような暗く長い穴や不気味な赤い夜雲は、白昼夢が終わると思い出せない。とかく激しい感情だけがわだかまって、日常を忘れさせるのだ。
新しい家族に隠れて、そういう本を読んだことがある。ひどく傷ついてトラウマになった時は、自己修復のため唐突にそのシーンを繰り返すのだと書いてあった。では、長い親の不仲によほど傷ついたというのか。そこへテレビでも見てトラウマになった風景でも重なっているのか。17年生きてきて、長く大きく悩んだことといえば、親の不仲以外思い浮かばなかった。それとも本当になにかバランスを崩しているのか、カウンセリングなど受けた方がいいのか。
ただでさえ強烈な感情が残る白昼夢だ。処理もままならぬ未知の感情の上に、分厚い不安が上塗りされる。
鞠香は、制服をひるがえしエスカレーターへと急いだ。特急も停まる夕刻の駅は、通勤客に混じって、制服の少年少女がそこここに散らばっている。
うずたかく積まれたチョコレートのワゴンを目指し、華やかなアーケードには目もくれず歩いていくと、小さなハート、大きなハート、ナッツにブルーベリー、あっちを見てもチョコレート、こっちを見てもチョコレート。そこへ女子学生が、めいめい好き勝手なお喋りをしながら鈴なりになっている。まるでこの一角だけを、特別な熱気が支配しているようだ。
ミルク……ホワイト、甘い方がいいかなぁ。それとも上品な大人っぽいのがいいかなぁ。
普段は改札を出ると、デパートに入れるのだが、特にこの期間は駅側にも特設ワゴンが設けられ、改札を通らずとも買えるようになっていた。
「ひっひっひっひっひー」
至極耳慣れた声がした。
「ねぇねぇねぇ。それ、誰に買うのーぉ?」
どこから湧いて出てきたものやら。姉の聖美である。
「誰にもなにも、あーちゃんのだよ」
「ふぅぅん、あーちゃんのねぇ?」
一言前とはうって変わって機嫌悪そうに答える聖美。
鞠香はガックリと肩を落とした。
高三にもなって、妹にチョコをせがむなよ……。
交際に厳しい女子高でありながら、恋多き人生を送る彼女。しかし決まった人と長く続かないのである。その猫かぶりの裏に隠された性格が、いろいろと災いを呼んでいるような気もしなくはない。
「あーちゃんは東京でみんなと離れてるでしょ、だから送ったげるの」
「本当かなーぁ?」
この期に及んで、まだ信じてくれないらしい。
「ほ・ん・と・う・なのっ。きょんちゃんこそなんでこんな所にいるのよ。家と反対方向じゃない」
「そりゃ、まぁの後をつけて来たに決まってるでしょうが」
まったく威張ってどうするのか。偉そうに胸を張って答える聖美が、ふたつも年上とは思えない。思いたくもない。仮にも、義理の姉妹になる前は憧れの先輩だったのだ。
鞠香と聖美は、親の再婚による義姉妹である。もともと部活の先輩後輩だったものを、母に連れられた鞠香が山田家に入った。その家には、聖美のひとつ下の従妹で、幼い時に両親を亡くしたあーちゃんも同居していた。
今まで、子守唄のように夫婦ゲンカを聞いてきた。今でも怒鳴り声を聞くと、意味もなく焦ってしまう。自分に向けられたものでないとわかっていても身が竦むのだ。だから喧嘩が始まると、家に閉じ込められた気持ちになった。それを毎晩床で忍んで眠ってきた。二人が仲良く出来ないのは、自分が悪いのかと思い巡らせながら。恋愛結婚だと聞くが、それならなぜケンカばかりするのか。小学生だった鞠香には、何度考えてもわからず、ただ自分なら夫を大事に子供も大事に、夕飯のあとテレビを見て笑っていられるような家庭を作るのに、と思うばかりだった。
そうやって気持ちを堪えてきた鞠香にとって、新しい家族との生活はしんどさより楽しさが勝っていた。家族以外と暮らす経験をもって迎え入れてくれた義姉達のおかげもずいぶんあったと思う。その歩美も今は東京の親戚宅だ。
頑張っているだろう歩美に、筆まめな鞠香は、何くれと手紙を送ってはまた返事がきていた。その郵便にチョコレートを同封しようとの買い物だった。聖美に言うとまた色恋沙汰に持っていきそうなので黙っていたが、ばれて隠すような事でもない。
鞠香は、列を成すレジへと向かった。
リズムよく刻む心地良い揺れとは裏腹に、通勤通学ラッシュの車内はすし詰めである。カバンなんか持っていなくても、人と人が挟んで勝手に目的地まで行ってくれる。鞠香と聖美もどうにか吊革を持って、右へ左へ大きく揺れるたび、弓なりになって踏ん張っていた。
「ねぇ、まぁは彼氏いないの?」
手を繋いで歩くのを見つかっただけで反省室行きという校則も、聖美にかかっては何の戒めにもなっていない。お年頃の生徒を今時こんな校則で縛ろうという方が時代遅れかもしれないが、それにしても恋愛話の好きな聖美だった。
「いないよ、好きな人ならいるけど……」
対する鞠香は疎い方だった。中学時代より片想いはしていたが、それも学校が分かれて月日が経つにつれ忘れつつある。片恋の自然消滅である。
「そういうダレた恋じゃなくて」
興味あるものはいくらでもあった。なにも恋愛だけが一番でなくても良いと思うのだが、聖美に限らずクラスメイトも事あるごとに好きな人の話で華を咲かせていた。芸能界の話に男の子の話、他にも話題はあろうものを何がそんなに楽しいのか。晩熟など言われるが、同じ話ばかりしている人の方が幼稚だと思っていた。
それに恋なんてものは、そっと静かにしまっておくものではないのか。
「そういえば、あずの入試もうすぐだね」
苦手分野になると話を逸らすのは、鞠香の常套手段である。聖美は内心ため息をつく。もう少し青春を楽しめばいいのにと思うが、どうにも恋に恋をしている鞠香に、手ごたえのある現実の恋はまだ早いのか。逆に聖美などは、そんな鞠香を何が楽しいのだろうと思っていた。
「あの子なら受かるでしょ」
すげなく答える。そんなことより今日こそは、とくと青春の楽しみ方を説いてやろうと思っていたのに、まんまと逃げられてしまった。
「あずが受かったらさ、きょんちゃんの進学祝と一緒にパーティしようよ」
無邪気な提案に、思わず苦笑する。これはこれでいいか、と心内で呟いてみる。
高校合格の知らせを聞くのは、もう少し後だろう。その頃には桜の開花予想も出ているだろうか。春までもう一歩、皆で早春を祝うのも悪くない。
もうあれこれ企画を練っている鞠香に、いつまでもこのままでいて欲しい気もする。聖美は微苦笑を漏らした。
列車は走り続けていた。駅だけはやたらきれいだが、道中はごみごみとした街並みが続いている。その灰色の高層建築がふと滲む。
「雪だ……!」
鞠香が目も離さず呟く。
水分を含んだ冬将軍の落し物は、次々とガラスに付着し水滴となって消えてゆく。窓ガラスがさらに曇って視界を悪くした。
「今日は寒かったもんね」
「うん、なんか温かい物が食べたいよね」
帰ろう、私たちの家へ。
こんな話が出来ることが、鞠香にとっては幸せだった。今まで経験のないものを与えてくれた聖美たちの存在そのものが幸せだった。団欒や寛ぎと共に、繋がりというものの強さ心地良さを教えてもらった。現状に不満はない。
なに食べようか、ゆっくり身体を温めたいね。
聖美の出現のおかげで、妙な白昼夢も薄れていた。口ではなんとか言いながらも、一緒にいられることが嬉しい鞠香だった。
プシュー。
発車から二十分、乗車率120%の車内から人が吐き出される。ごった返すプラットホームを降り、隣のローカル線に乗り換えだ。
蒸したにおいから解き放たれ、鞠香も大きく息を吹き返す。いつまで経っても本線から繋がらず、朝はこの階段が駆け込み乗車必至の原因となるのだが、これはこれでいいような気もする。おかげで市外の人には、電車なんて文明はないだろう、牛が車を牽いているだろうなどと、からかわれる緑多き町が保たれているのだから。
次の駅を過ぎる頃になると、もう田畑が目立つようになって、長閑な景色が繰り広げられる。早速うっすらと雪化粧した土も、春になれば桜並木が覆いかぶさるように咲き乱れ、薄紅の波がゆらゆら続く通学は心躍るものがある。
それももうすぐ。鞠香は巡り来る春を夢見て、苦手な残冬をやり過ごしていた。
もうすぐ花が咲く。昔の人は、桜咲く季節を夢見月と呼んだ。今年の春は何を夢見よう、何が夢を見させてくれるだろう。桜を待つのは、なにかが始まる予感と似ている。
|