Quest1:My Lady Blue
月はとうに沈み、間もなく太陽が燃え立つような朝焼けを連れて水平線の彼方から顔を出す頃。うすら寒いといっても上着を一枚羽織っていれば充分しのげる気候だ。
星が白けて見える朝早くに船は港へ入った。甲板での静かで穏やかな
日暮れから一夜明けやらぬ次の朝のことである。船旅は全部で二日の行
程だ、途中でいくつも他の港に入って積み荷を下ろしたり客を下ろした
りしてきたが、南の端っこまでとうとうやって来たわけである。
「どこへ行きなさるのかね」
朝もまだ早いのに、鞠香が意気揚々とタラップを降りようとしたその
時である。突然しわがれた声で見も知らぬお婆さんが話しかけてきた。
腰がほぼ直角に曲がった皺だらけの小さなお婆さんで、その姿は悪いな
と思いつつも今にも枯れそうな老木を連想せずにはいられない。
「まだ分かりません」
わりと人見知りしない長定がとりあえず笑顔でそれに答える。営業用
八方美人スマイルとでも言おうか、どうも人当たりはいいらしい。
「それでは伝説の語り部に会うがええ。島の事を色々教えてもらえるじ
ゃろうて。」
お婆さんは謎の言葉を残して、フォフォフォといかにも歯がないんだ
なぁという笑いで立ち去って行った。
「伝説の語り部、ねぇ」
二人は顔を見合わせ小首をかしげていたが後ろに人が詰まってきたの
で、一時その話は据え置くと、不安定に揺れるタラップを駆け降り、記
念すべき南の島への第一歩をしるした。
もう南風だ。 空は雲も
なくよく晴れわたっており、まだ陽が昇っていないのでこんな気候だが
昼間になればもっと暖かくなって、はるばる二日もかけて南へやって来
た感がもっと強まることだろう。
鞠香は薄いオーガンジーのブラウスを羽織ってその下にブルーのワン
ピース姿。ワンピースはトップレスになっており、胸から首へリボンを
通して首の後部で結われている。腰は流行のAライン、小さい華奢な腰
が綺麗にくびれ浮き出て、加えてミニスカートときたもんだ。裾が海風
をうけてヒラヒラと揺れる度に健康的な足がチラリチラリと、既にバカ
ンス効果にかかっている長定を魅惑して止まない。昼になってブラウス
も取り払われ、まだ見ぬ肌の上にたった一枚の布を巻いただけの姿が見
れるだろうことは容易に想像できる。
「あぁ感謝感激雨あられ!」
そう言って咽び泣くのを、まさか自分が原因だとは知らぬ鞠香が呆れ
て上着を引っ張り急かす。
「ほらホテルのお迎えが来てるよ。」 しかし期
待するような事はないんじゃなかったのかって?当然、そんなことは棚
の奥深く仕舞い込んで忘却の彼方だ。まっ人間、そんなもんだろう。
さてもう片方の御一行はというと、神の使いで来たどころか下心みえみ
えの長定と純粋にお使い気分の鈍チン鞠香を後目に、肝心の二人よりも
ハイグレードのバスに乗り込みハイグレードなホテル目指してまだ薄暗
い道をましっぐら、他のお客を困らせるほどの大はしゃぎようだった。
こちらも大義名分はどこへやら物見遊山はどこへやら、完璧にただのグ
ループ旅行と化している。
「きょんちゃん、きょんちゃん!さとうきび畑よ!」
歩美が珍しく興奮して身を乗り出し指を伸ばす。その白魚のような指
の先には赤茶けた土の上をそよぐサトウキビ畑が、一面に広がっている
。隣に座っていた聖美もひょいっと顔を出し、
「あら、ほんと。」
その後ろに座っているあずさももう窓から落っこちんばかりに体を乗
り出して大騒ぎしている。
「ホントにざわざわゆってる!」
「波の音に似てるよね。」
あずさの横に腰掛けていた蘭子が、前のシートに頬を寄せうっとり波
の音に目を閉じた。
渇いた潮風がさとうきびの葉ずれの音と共に緑の匂いをのせてやって
くる。
ざわわ、ざわわ・・・もうすぐ会える・・・ざわわ、ざわわ・・・
広いとうきび畑でざわめく風の予感。早く会いたい、みんなどうしてる
?
食器を持ち運ぶ控えめな音が遠ざかると、長定はゲップと共に背もた
れに大袈裟に倒れ込み、鞠香も広くなったテーブルへと一気に突っ伏し
た。
ここは食堂だというのに扉という扉は全て開け放たれ、微量の砂など
おかまいなしで暖かい朝の風が吹き抜けて、いかにも解放的な南国なん
だなぁという気にさせてくれる。そんなのが不潔だと言う都会の常識な
んかクソくらえ、偽りではない自然の中で真の太陽や風を受けているよ
うな気がして、黴菌どころか健康的な気にさえしてくれる。風はこの建
物内を何気なく通って、窓の外でぶらさがっている特大級のバナナの花
と深緑の葉っぱを揺らし海へ抜けて行く。それは自由という言葉が本当
に似合う南の海風だ。
「さーて朝飯も食ったし、どうする?」
長定がまだ椅子にもたれたままやっと口を開く。
「まずは情報の多そうな場所へ行ってみない?さっきの伝説の語り部っ
ていうのも気になるしさ。」
鞠香もテーブルにうつ伏したままだ、二人して船旅の疲れも何処へや
ら、朝から豪勢に食べまくったらしい。
「そうだな、じゃぁ腹ごなしにレンタサイクルでもするか。」
妙案に鞠香も頷き、とりあえず人の集まっていそうな漁港目指して出
発することにした。
しかし、これまた重労働だった。景色を見てサイクリングなのーなん
ぞという楽しいものではなくて、坂は多いわ潮風がきつくてペダルは重
いわで、もう汗を拭き拭きゼーゼーヒーヒー言いながら上ったり降りた
りの連続である。いざ漁港へ着く頃には、絶対いつもの一か月分の運動
量に相当している自信がある。しかしそうは言うものの、車の走ってい
ない真っ直ぐな道、その坂を上りきったら目の前は真っ青なリーフの海
。そんなあおい風景はしばらく忘れていた冒険心をくすぐるし、路の脇
には一面のさとうきび畑が風を受けてざわざわし、所々に色鮮やかなハ
イビスカスやブーゲンビリア、パイナップルも熟れている景色は気分爽
快で、久しぶりにこんな新鮮な緑の光を浴びて、のびのび体を動かすの
が最高に気持ち良いことに違いはない。
「鞠香、向こうの断崖の下がそれっぽいぜ。」 言われて
見たその先には、確かに漁港らしき物が見えたが、せっかく苦労して上
ってきた道をまた下るのかと思うと無性に腹が立ってくる。なのに長定
はもう下りに入っていて、愉快そうな駆け声だけを残し急カーブの向こ
うへ消えてしまっている。こっちが休憩する暇もない、全く元気なこと
だ。
はぁー。でもきれいー。
あんな人間離れした男はしばし放って置くことにして、鞠香はその坂
の頂上で水平線の遠くを仰ぎ見た。
それぞれのグラデーションで空と海との境がブルーに溶けて混じり合
っている。まるで夢のような色の国、ここなら本当に扉があるのかも知
れない。その夢の国の爽やかな海風が、さっきまでの汗をすがすがしく
拭い去って行く。鞠香はなすがままに吹かれ、肺いっぱいに風を送り込
んだ。
「おぉーい、早く早くー」
もう坂の下で両手を大々的に振って呼んでいる。
「もう、ちょっとぐらい休ませてよぉ」
小言を吐きながら鞠香は勢いよく自転車のサドルに乗っかり、耳元で
風を鳴らしながら一気に長定の所まで滑っていく。
それから暫くは体力消耗の激しい彼女に合わせてゆっくり進んだので
、島最大の港に自転車を乗り入れた頃には時計はもうとっくに正午をま
わっていた。
「いらっしゃい、らっしゃい!採れたてピチピチの魚はどうでぇ!」
「姉ちゃんみてぇに瑞々しいフルーツもあるでよ、兄ちゃんどうだ」
ところが港に一歩足を踏み入れた途端、いかにも島の人間ではないと
見えたらしく、こりゃカモだと言わんばかりで露店商人達の餌食にされ
て、あっと言う間もなく伝説の語り部どころではなくなった。そういう
ことも手伝って、とりあえずは隅に自転車を止めると情報収拾は後回し
にし、すっかり消化しきった腹の為にまずは昼飯を調達することにした
。
港は島一番の賑わいというだけあって、市がズラーッと立ち並び、い
かにも海の男という感じの、日に焼けた親父達の客引きの声で活気に満
ち溢れている。カモメまでもが、そのおこぼれに預かろうと集まってき
て活き活きしている。
簡単な布だけでこしらえた屋根が照りつける真昼の日差しを防いで、
その下には形も悪くやたら大きさに差はあるが新鮮な天然の果物から魚
などの食べ物や、色とりどりの花束、ガラクタにしか見えない骨董品の
壷や道具等までもが所狭しとひしめき合っている。テントからぶら下が
る豚の足や頭には自分たちが都会のもやしっ子であると痛感させられた
し、どだいどう料理するのかも見当がつかなかった。一体ここは本当に
同じ日本なのだろうか、二日も船に乗っている間に外の国まで来てしま
ったのではないかと真剣に不安になってくる。
「お兄ちゃん、彼女にプレゼント買わないかい」
およそウェストなんてものが何処にあるのか見当もつかぬ逞しい体つ
きの女将さんに声をかけられ、二人はふと並べられた品に目をやった。
そこにあったのは青っぽい勾玉だった。鈍い不透明な物からまるで自
分で光を発しているような物まで様々で、形もただの石からブレスレッ
トやネックレスにあつらえてある物まで色々だ。
「ここいらで採れた原石を磨いた物だよ」
どうも話は真でも屑石のようだが、それでも旅の思い出には良い土産
品かも知れない。
「ねぇ、二人で買わない?」
提案したのは鞠香だった。
そうして鞠香はほんのりと自ら光を発しているような緑青の石を、長
定は同じく半透明の濃青色を選んだ。手のひらで転がしてみると陽光に
反射して幾重にも色を変える。
ふふ、きれい。お守りにしようかな。
大いに満足げな彼女とは裏腹に長定はそろそろ腹が減ってめまいがし
てきた。これもバカンス効果の一種だろうが、とにかく旅に出ると普段
より食欲が増すのが常で、口にする物はなんでも旨いのだ。その長定の
空腹の訴えに、鞠香も自分への土産を眺め回すのはやめて銘々、好きな
物をごっそり買い込んで来ると海べりに腰を下ろした。気色悪いほど派
手な魚は身が締まってて汐が効いているし、摘みたてフルーツは果汁い
っぱいで喉の渇きを癒してくれる。こればかりは街では味わえない旅の
醍醐味だろう、なんでも旨いのだって一理ある。
「巫女には会えたかえ」
突然したその声を聞いて、二人は瞬時に振り返った。
そこには、さっきまでは確かにいなかったのに、朝のお婆さんが座っ
ていたのである。
「お婆ちゃん、いつの間に!」
「フォーフォーフォ、伝説は聞けたかね」
鞠香の驚きを見事に歯の無い口で笑い飛ばして、その奇妙な大声にカ
モメも飛んでいって、しかし構わずに再度同じことを繰り返す。ともす
ると惚けているのかと思いがちだが、その深い皺のなかに落ち窪んだ眼
光は鋭く、とても年寄りとは思えぬなにかの意思を宿していた。
「これから探すところなんです」
長定が得意のスマイルでやんわり諷意する。どうも、うさんくさい人
だと思っているようで深く立ち入ったことは聞かないつもりらしい。
「フォ、そんな緊張せんでもええ。わしがその語り部の巫女じゃよ」
これには二人共驚いたのなんのって。お婆さんも人が悪い、じゃあ何
故あの時あんなことを言ったのかと詮索せざるを得ないような事実をサ
ラリと口にする。まったくもって怪しい。
「いい若いもんが小さなことを気にするでないよ。」
なんてこった、おばあさんは人柄を疑うようなことを平気で言っての
け、急に真面目な顔つきになったかと思うと、今度はその伝説とやらを
朗々となにかの呪文のように呟き始めた。
「朔望潮の月の夜、波のまにまに船輝き我らが創世主の御元淤之碁呂に
光導き給う。光が天降りぬ前に祈り給え。子らすべての神を讃えよ、そ
して感謝せよ。このすべての創造主を祝せ。もし、これを忘るれば大地
は枯れ、天空は雷に、海原は干してしまうだろう。そして子らは今日も
祈りを捧げる、祈りを捧ぐ。あぁ感謝を、すべての創造主へ感謝を。我
々を創り給えし創造主を祝せ。」
・・・・・なんの言葉も出てこなかった。
なんだというのだ。この新興宗教のような文句、いったいこの何処が
扉を探す手がかりになるというのだろうか。これは失敗だったかも、二
人がそう思った瞬間だった。
お婆さんがみるみる灰になって崩れ落ちたではないか。
二人揃ってつい後ずさってしまう。
「なんなんだよー、また変なことが起こっているのか?」
「やだ、また重久みたいな人じゃないよね」
言ってるそばから血の気の失せた顔で立ちすくみ震え出す。鞠香の中
にトラウマのように残る、あの真夏の記憶。その恐怖が再び牙を向いて
襲いかかり鞠香は歯の根が合わなくなったまま棒立ちになった。もう顔
面蒼白だ。それに気付いた長定が素早く肩を抱いてやったが、おかしな
事にこんな昼日中に人が一人消えたというのに、それなのに周囲に全く
変化がないのである。
なぜだ、誰も気がついてないのか?仮にそうだとしたら、鞠香の言う
ように奴らの仲間が?でも今頃?
鞠香はまだ遠い処へぼんやりと虚ろな視線を漂わせていたが、始めこ
そは大きく震えていたものの、早くも幾分かはましになり頬に朱みも帰
ってきた。これなら大丈夫だろう。あの時彼女とは別に、目の前で無惨
に人を失う真の恐ろしさというのを長定も強烈に体験した。思い出した
だけで身の毛もよだつ。冗談ではない、あんな思いはもう二度と後免で
ある。奴らなどであってたまるものか。
「とにかく行こう」
長定は、やっと正気に戻った彼女の肩を抱き寄せ自転車を置いた場所
まで連れて行ってやった。再びその耳に市の賑わいが戻ってくる。今ま
で音声のない映像を見ているようだった事に改めて気付かされる。恐怖
とは聴力をも奪い去ってしまうものらしい。
相変わらず風は吹いていて、海水はトルコ石を溶かし込んだような水
だった。
「大丈夫だよ、奴らは俺が確かに倒したよ」
あの時自分に返ってきた肉を貫き骨をも砕く形容しがたい鈍い音と確
かな手応え、そして怨霊とはいえ人の形をとったものを刺し殺すという
現代ではとてつもなく非現実的な行為を思い起こすと、男だてらに今で
も膝が震える。
「ん・・・そうだよね、ごめん。」
それでも彼女を安心させるように切れ長の瞳でできるだけ優しくほほ
えむと、その足で港を後にした。
ざわざわという波の音に混じって、とうきびの葉ずれの音が、防波堤
に腰を下ろしている鞠香と長定の耳をくすぐる。空はもう暮れなずんで
頬にはすこし強い目の夕刻の風、もうそろそろ海の色も淡くなってゆく
星の宵だ。
今朝はまだ陽も昇らない時分に到着し、あの港から休憩を何度かはさん
でグルっと大周りにも小周りにも廻ってみたが、結局は見つける事がで
きなかった。おかげでヘトヘトに疲れた。大体こちらの世界とパラレル
ワールドである彼らの世界とを繋ぐ扉というのが、どこでもドアのよう
にポツンと道の真ん中に立っているのか、特別の条件が揃わないと見え
ないものなのか、これまた開けゴマとでも言わなければならないのか、
これっぽっちも分かりゃしない。なんてひどい話なのだろう、いくら島
が小さかろうと情報が不足し過ぎている。あの二神が言うのだから、海
の中なんてことも本当にあり得そうで空恐ろしい。自分達が普通に探し
当てれる処にあるのだろうか、とてつもなく不安だ。それに加えてあの
正体不明のお婆さんの話、突然灰になって消えてしまった。いったい、
あのどこぞの説法のような言葉には何が隠されていたのか、皆目見当が
つかない。あの中で理解できたといえば、朔望潮とかいう日の月夜に船
が光って現れるという所くらいなもんである。さっき地元の人に聞いて
みたら、なんのことはない朔望潮とは大潮の事でちょうど明日のようだ
が、明晩なにかが起こるというのだろうか。
暢気なもので、相変わらず伊邪那美神は呼びかけに応じてはくれない
。
もちろん女神には下心があるわけで、だからして余程の急を要する事
態ではない限り、呼ばれたからといってホイホイと姿を現すつもりなぞ
毛頭ない。
なんてリアルな縁結びなのだろうか。 そのこと
が判っている長定は非常に複雑な気分だった。まがりなりにも神様がく
れた旅はチャンスではあるが、そんな期待されているような事態を起こ
す気はないし、なりそうにもない。それに時空を繋ぐ扉の場所を探さな
ければ、いくら売り言葉に買い言葉で引き受けたことでも本当にデート
で終わってしまうではないか。旅費だって馬鹿にならないのだからデー
ト旅行で終わらせるわけにはいかないし、なにも長定だって恋愛沙汰ば
かりが目的ではない。アルテナやドーン・チェリィに会いたい、会って
なにから話そうかなどと考えつつ長く退屈な船旅を過ごしてきたのであ
る。だから仲の進展は二の次で、長定自身としてはこういう経験を共に
しながら時間をかけてゆっくり、お互いの内に秘めた想いを過去形にし
てゆければと望んでいるのだ。
浜辺には相も変わらず強風が吹き付けて、その度に鞠香の長い髪を乱
しもつれさせる。おかげで彼女もいちいち髪を撫でつけて気にしている
様子だが、その仕草がなんとなく艶めいて見え不意にハッとなる。
空に宵の明星がひときわ目をひいて夜の帳が降ろされ、辺りはすっか
り暗くなってしまったのに扉は見つからない。
鞠香はふぅと嘆息まじりで隣にある肩に身を委ね、その肩もほんの少
し驚きはしたものの、またすぐに先程までの平静さを取り戻し疲れきっ
たその身体を受け入れた。星屑色に染まったタンクトップは昼間の太陽
のにおいをサンサンと流して温かだ。
「伝説って、あれ、どういう意味なんだろうね」
扉はどこにあるのだろう。今すぐにでも会いたいのに・・・伊邪那美
様はいくら呼び出しても降臨してくれないし。でも、実はこういうのも
楽しかったりして。
鞠香はいたずらっ子がするみたいに肩をすぼめて、そしてそれからクス
ッと目を細めた。
「長定くん」
なに?というように彼の視線が海から自分へ切り替わる。
「こんなこと不謹慎だけれど・・ちょっと楽しい、ね」
「あぁ」
驚いて照れくさそうに緩む顔がにわかに優しくなってゆく。
お互い使命を忘れたわけじゃない、けれどもこの南国の楽園の下では
誰もが素直になって、優しい気持ちで心が満腹になってしまうのだ。
幸せが心の底の渇いたコップに満ちてくる。 勇気の河
のなかに含まれる幸福の成分、数少ない幸せ。けれど気付かないだけ。
勇気の河には優しい幸いの雫が降る、ただみんなが気付かないだけ。こ
の島はそれを思い出させてくれる。ただ、それだけ。
「やっぱりみんなで来たかったな」とは長定。
「うん、どうしてるかなぁ」
「見せてやりたいな」
「うん、このいい気持ちも!」
優しい気持ちが勇気の河に降り注ぐ。みんなにも伝えたいこの幸せ。
満天の星夜光が南国の碧い海をほのかに照らしている。しばらくすれば
月も顔を覗かせるだろう。波の音ととうきびの葉ずれの音だけしか聞こ
えない静かな夜が始まろうとしていた。
「ばかやろぉー!」
背後の茂みでは、いきなり限りなくボリュームを絞った罵声が上がり
、懲りずに二人の恋路を見守っているつもりらしいみんなが一斉に各々
の拳を振り上げ『ばかやろう!』のポーズのままで将棋倒しに倒れ込ん
だ。
「なんてかわいいこと言うんだ」
企画した当の本人が真っ先に鼻をすすり上げる。本当に情けないのは
どっちのことやら、鞠香なんてしっかりしたものじゃないか。義理とい
えどもシスコンで妹離れできないのは聖美の方である。
と突然、 「あっ!!
」
かすれてうわずった声が沸きあがり、一同のなかに張りつめた緊張の
矢が飛んだ。
「いけー!」 立場上仕
方なく声は小さい目なのだが、あずさがさっきの拳をブンブン振り回し
て檄を飛ばし、まるで応援合戦のようにピラミッドを組んでドミノ倒し
のまま重なり合っている他の四人も思いも寄らぬ展開に生唾飲んで、目
を皿どころか盆のように大きくし、体中の筋肉という筋肉すべてに力を
入れて目の前の展開を見守った。まるでドラマのいいところを直に見て
いる気分だ。
「鞠香・・・」
先走りする感情を心の中で必死に押しとどめながら、できる限り温か
な気持ちを込めて名を呼んでみる。 今なら大丈夫かな。
おそるおそる腕をまわす長定、
でも前みたいに蘭丸に嫉妬したわけでも他の人々が期待しているような
下心からでもない。自分でもわからない、未知の感覚。愛しみたい・・
・それだけ。
鞠香の方もリアルな縁結びが効を奏したのか、ほんの少し戸惑いこそ
したが、素直にそのまま目を閉じた。
そうして南海の楽園が醸し出す彩り鮮やかな記憶と共に、口づけがあ
の夜のすすき野の切ない涙を優しく包み込んで降りてきた。最初はすこ
しだけ。
「もういっかいキスしてもいい?」
うつむいて頷く鞠香に再びあったかい口づけ・・・今度はいっぱい、
いっぱい混じりけの無い真っ白な優しい心で。
・・・あの夜の君、一面の月見草の海で風に吹かれ笑っていた。轟く爆
炎をかき分けて手をさしのべてくれた君、私の名を呼んで却火のなか駆
けずりまわる、切羽詰まった悲鳴のような叫び声が今も頭に残っている
よ。私のために瀕死の下から血の涙を流してくれたね、朝露残る野原で
の永遠のキス、未来永劫有効だった。そして別れの時、行かないでと泣
きじゃくる君を抱きしめた感触が頭を離れない。一夜一夜すべて憶えて
いる。
・・・これは奴の記憶なのか?同時に沸き上がる深く悲しい想い。な
んて苦しい・・・宇宙の理に必死に抗いながら耐えて、それでも捨てき
れない悲しみに満ちた愛情・・・
楽しい記憶と辛い記憶が頭のなかでゴチャゴチャになって気が変にな
りそうだ。一時的に混乱しているのか?いったいこの記憶はなんなんだ
。彼女をかけがえのない愛しいものに思ったら甦った、やっぱり俺は蘭
丸だったのかもしれないと思ってしまう。伊邪那美神が言ったみたいに
前世は自分の中にあるのかも知れないな。しかしこんな想いを鞠香もし
ているのか、果てしなく続く終わりの無い記憶を時々思い出しては眠れ
ない夜を何回過ごしてきたことだろうか。あの月華に照らされた満面の
笑顔をもう一度・・・それまで側で力になれれば気も紛れるだろうか。
勇気の河を一面のあわが上昇してゆくよ。その合間を縫って幸いの雫が
春雨のように音もなく降って、たくさん降って渇いた河を潤し癒してゆ
く。
そして月が宿る、鈴の音の光で二人を覆いながら。 このひと
時が過ぎれば、この記憶も心の奥深くに堕ちて再度思い出すこともそう
あるまい、俺は俺のやり方でやってゆこう。思い出して立ち止まった時
は振り返って手を振ってあげるよ、無理に忘れなくても一緒に隣を歩い
てあげる。だから、いつも笑顔で前を向いていて。
すべての創造主に感謝を・・・祈りを・・・
美しき大地に
美しき天空に
美しき海原に
きれいだよ。きれいだよ二人とも。知らず知らずに涙が溢れる。
「きょんちゃん、泣かないで」
側で歩美の声がする。メンバーきっての感動し屋が泣いていない訳は
なく、その声は微かに震えている。
「帰ろう」
聖美を先頭にして腰をあげ、曲がりくねったあぜ道を上って帰路につ
く。道の脇には白く照らしだされた大輪の花々、そして広がるさとうき
び畑。背後にはみんなの影、そして椰子の木の向こうの白い砂粒。空に
は星の林、月の船・・・
みんな無言で歩く。 ごめんね、
ちょっと後悔。きれいだったよ二人とも。
ぽたりぽたり、みんなの心に幸いの雫が降り注いで渇きを癒す。
私達はいつからこんなに渇いていたのだろう・・・夢も希望もここに
あるのに、まほろばは側にあるのに。幸せな気分はみんなを笑顔に変え
て心を真白に染める。
これが伊邪那美神の本当の狙いだったのかも知れない。今度は伊邪那美
神の罪滅ぼし、すれ違った心の浄化。この南の小さな島の大自然なら素
直になれる。不思議な南の島、夢と希望を繋ぐ扉が存在する神秘の楽園
。
伸ばした足元に緩やかな波がうちよせる。そろそろ潮が満ちてきたら
しいが、それでさえ今は気にならない。
「長定くん・・・」
長い口づけを軽いフレンチキスで締めくくる。
「また、びっくりさせた」
「ううん・・・」
後悔の念で視線を落とす長定の胸に、自身を任せて頭を振った。いた
わるような澄んだ広がりのある声だ。
長定の純粋な気持ちが、重ねた唇を伝って鞠香のなか深く落ちて頑な
だった心をとうとう潤したのである。
身体の芯から温まってゆくよ・・・私も長定くんがたぶん好き。まだ
蘭丸を忘れることはできないけど、けど長定くんも大事だよ、勝手かな
ぁ。この人は蘭丸とは違う、同じ人物だなんて絶対に思えない。でも気
がついたら大切で、蘭丸とはまた別の好きな気持ちでいっぱいになって
た。
「このまま鞠香が欲しいけど・・・やめておくよ」
長定の苦しそうにくぐもった声を聞いて鞠香が不思議そうに目を丸く
して無言で答えを返す。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔だ。
どういうこと? 「俺、自
信がないんだ。下心とかそんなんじゃないんだ、でも心にこんなに辛い
蘭丸を抱いたお前に触れるのが恐いんだ。歯止めがきかなくなって傷つ
けてしまいそうで・・・」
「長定くん・・・」
そう言い淀んで、鞠香の少し困ったような顔に我を取り戻す。
「こんなこと言ってもしょうがないのにな、ごめん。でも前みたいな嫉
妬じゃないんだぜ、後は整理をつけるだけなんだからな」
そうなの・・・と聞き流してしまいそうになったが意味深な笑みに、
言葉の続きに隠された台詞に気がつきハッと目を伏せた。
・・・そしたら鞠香が欲しい・・・
まるで心中を映すかのような彼女の率直な行動に長定も照れ笑いをも
らす。
我ながらキザ。テレビの見すぎだな。 「うん」
相変わらずバレバレの照れ隠しに強気な決意をあらためる。
きっとこの手を離してはいけない。長定くんの温かい実感のある手を大
事にしなければいけない、すごくそんな気がするよ。きっと身を切るよ
うにつらいけれど、自然の理には叶わないって今は少し思えるようにな
った。やっと思えるようになれた。今、側にいてくれる人を大切にしな
きゃ。時間も自然の理だから・・・蘭丸は愛してるって言ってくれた、
誰よりも愛してるよって。それだけで充分だよね。結局は叶わなかった
けど、添い遂げられなかったけど、大丈夫、忘れられるよね。過去はや
り直せるよね。
「蘭丸と香代さん、どうしってかなぁ。」
「うまくやってるといいな。だって私、香代さんじゃないと納得できな
いから!」
どうしてか未だに自分の意に反して涙がこぼれそうになるのを堪えな
がら、渚にあった貝殻を海面に投げ捨てた。すると渦巻貝は、小さな水
音と共に丸い波紋を広げ波間に漂う月を揺らめかし、相変わらずの浜風
は音をたててブルーダイヤを落としたような星空を走り、再び鞠香のス
カートを今度は思いっきり気持ち良くまくりあげた。もうマリリン=モ
ンローのあの有名な写真を思い出させるような強烈さで、健全な青少年
には刺激的すぎるほどで、もちろん長定とて例外ではなかった。
「・・・見えた?」
「い、いや?青いのがちょっと・・・」
そう言いつつ目を空に泳がせ、真っ赤になって怒っているだろう顔を
チラッとかいま見てみる。案の定、フグ提灯に見間違いそうな程ぶんむ
くれている姿が双の眼に映り、どうしても笑いがこぼれてくるのを噛み
しめるのに苦しくて仕方がない。
「もう!!うそつき!!」
やっぱり赤くなってる。ゆでだこみたいに。
あまりにも予想通りで、なんだか今にもプッと吹き出してしまいそう
になる。久しぶりに心が軽くなるような気持ちの良い笑いだ。そう意識
したとたん不意に気恥ずかしくなって、まるでその顔を隠すようにして
長定は立ち上がり、バシャバシャと派手な水しぶきをあげながら水の中
へと走り込んだ。水しぶきは月影をおとして、その月がこぼした涙のよ
うに海の中へと落ちてゆく、それがひんやりとして火照った身体には心
地良い。
「前言撤回だからね!」
大声で怒鳴りながら波間に足を踏み入れ先を行く長定に向かって、日焼
けして赤くなった腕をブンブン振り回し後を追う。さっきまで半ベソか
いて文句たれていたとは思えない元気さである。
半月に照らされた水面は薄くて濃い目のターコイズブルー。勢いよく足
を回転させる足元で少しくすんで、白い星の砂が舞い散り夜空を焦がし
ている。まさに楽園、その楽園の穏やかな夜。すべての人に神の加護を
、平等に幸せを、母なる大地である海へ父なる天空へ祈る素朴な地。神
に護られし不思議の島。
その時いきなり突として長定が立ち止まったかと思うと、振り向きざ
まになんの前触れもなく、背後に大量の水をぶっかけた。おかげで鞠香
は上から下までもうズブ濡れで、その一瞬のうちにポタポタと水が滴り
おちる有り様だ。犯人はやんちゃ坊主みたいに舌を出して、さも愉快そ
うに笑い声をたてて逃げて行く。
「・・・もう信じられない!」
しばらくは呆然と立ちすくんでいた鞠香だったが、やがてまた腕を振
り回しながら走り出し、濡れて色を増した青いワンピースが風に吹かれ
た。
「ほらほら、鬼さんこちら!手の鳴る方へ!」
「こら待て!長定ぁ!」
ほのかな月の温もり、強い風の夜、揺れる椰子の木、波間に漂う星の砂
。
私自身を信じよう、私はそんなに柔じゃないはず、まだ頑張れる。き
っと頑張れる。私にはみんなが、長定君が側にいてくれるもの。
硝子の迷宮はこんなに美しい。でも出口はもうすぐ。自分の足で、自
分のテンポで一歩一歩踏みしめながら出口を目指してゆこう。
「つかまえた」
「つかまえられた」
タンクトップの裾をつまむ鞠香へときびすを返して急に真顔になる。
「鞠香・・・」
前髪から水滴を滴らせてハァハァと肩で息をする熱っぽい頬に、長定
のひんやりした指先が触れて頬がさらに加熱する。
少し大きめの切れ長の目が優しくほほえみ、頬の指に力が入って、鞠香
はそのまま引き寄せられた。 「長定くん・・・頑張る
から」 足元では1/4テンポで寄せては返
す波が、再び唇を重ねあう二人に祝福のウェーブを贈る。
いつまでも、いつまでも・・・限りない永遠のブルーで・・・
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