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DREAM1 〜月見野原の雫

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   Chapter4:春茜の紫野 


 飲んで飲んで、一介の高校生であるはずの鞠香がこんなに飲んだのは初めてだった。こんな大人びた飲み方も、初めてだった。ストレス発散、気を紛らわせるためにアルコールの力を借りるなんて。
 聖美は、こういうことを何処で覚えてくるのだろうか。たったの二歳差なのに。時々自分がひどく子供に覚えて、まるで置いてきぼり食らった幼子のように不安になる。
 いつ眠ったのかは覚えていない。鞠香がおそるおそる目を開けてみると、気色悪い森とはうって変わって、一面の花畑だった。
 辺りの人の、あの特徴ある服装。学校の資料集そっくりな艶やかで極彩色の衣が、白と琥珀の野に映えて美しい。飛鳥時代だろうか。
 どう見たって飛鳥よね。飛鳥って過去よね。過ぎ去った過去のことよね。
 鞠香は側にいた玲子と視線を交わした。自分もこんな顔をしているのだろうか。玲子は、鳩が豆鉄砲食らったような顔で目を瞬かせている。
 女人が方々で花を摘んでいるらしい。薫風が若葉の瑞々しい匂いを運んで、小さな花頭を揺らしてまわり、結わえられた女達の髪をかすめていく。
 驚いている暇もなく、とりあえずは服装だけでも真似ておいた。もしこれが本当に飛鳥ならば、相変わらず神話時代のような薄衣では、何が起こるかわからないからである。なんてたって寒いし。
 調整はもちろんお馴染みの魔力で。魔法の国の王子様が一緒にいて、こんなに心強いと思ったことはない。
 服装が整えられると、瞬刻草むらに身を隠し、声を押し殺して井戸端会議を始める。
「これって、どう見ても飛鳥時代よね」
「どうしていきなり過去、それもよりによって古代なわけ?」
「俺らの国までは西暦からいって同じ時代だぞ」
 鞠香から聖美の意見に、ご丁寧にもアルテナがバックアップをつけ、ただでさえ不安だらなのに遠慮なく奈落の底へ突き落としてくれる。
 昨夜までは確かに現代だったのに、なのにどうして急に過去へなんかに来てしまったのだろう。いったい飛鳥になにがあるというのか。いや、それを言うなら今までの旅にいったいどんな意義があるというのだろうか。
 平行世界の交差だけでは説明できない、もう時間も時空も混沌とした、立ち入ってはいけない領域にきているのではないだろうか。それは一般的に、神の領分といわれる不可侵の空間であるはずだが──。
「まさか、これが噂の大霊界じゃあないよね」
 思いもかけぬ鞠香の思考に、皆が吹きだす。
「花畑は花畑だけど」
 大声では笑えないから、腹を抱えて限りなく押し殺して笑う聖美に、蘭子が斜めに見上げて付け足す。
「死んだ覚えがあって?」
「……ない」
 こてんぱんにやられて口を尖らせる鞠香だったが、他にどんな理由も原因も思いつかないのだ。
 不思議がるみんなの中で、玲子ただ一人は、口には表せない奇妙な感覚に襲われていた。
「大霊界はさすがに私も賛成できないけど、SFのようにタイムスリップしてしまったことだけは真実ね」
 つくはずもない議論大会に、歩美が強引に決着をつける。皆がそうだそうだと首を振る。
「ところでさ、この時代の実力者は誰だと思う? この場所とこの花摘みの女性たち。時代背景を、全員が頭に入れていないと危険だと思う」
 さすが冷静な蘭子のもっともらしい意見を聞いて、また楽天家あずさがふざけて「私が女帝よ」などと腰をクネらせたその時である。
 玲子が胸を押さえうずくまった。
「うっ、うぅぅ……ぅ、ぅ」
 皆が振り向く。
 玲子の口から短い吐息が漏れる。
 な…に、この感覚……みんなが心配しているのに声も出ないの。胸のなかに穴が開いているみたいな変な感覚、懐しくて……気分が悪い。どうしよう、変だよ私。
 悲しいわけでもないのに無意識に涙が、次々と頬をつたって汚れを知らぬ小花へと滑り落ちていく。
「その方ら何者だ! 皇族しか入れぬこの野にどうやって入ったのだ!」
 皆は激しく肩を痙攣させた。
 豪華な馬具にまたがった男が立ちはだかって、何者かというほど高飛車な態度で皆を見下していた。まさしく、その時その瞬間。玲子が最高潮を迎え先程以上にうずくまって丸くなる。
「や…だ…胸が……」
 さりとて肉体が苦しいわけでなく悲しいわけでもなく。ただ心に開いた、モニターテレビのような空洞のなかで、途切れ途切れに映る緑、空、陽の光、暗い板の間、火などが蜃気楼のごとく揺れ動くのである。そして身体中を、ツンとしたやわらかな涙が駆け抜ける。
「今、取り込み中なんだよっ!」
 勢いよく振り向いたアルテナが怒鳴り返すと、男はわずかに冠にきた様子を見せたが、面には出さず続けた。
「私の顔を知らぬとは、そなた達、大和の者ではないな。私は前の皇極天皇の第二皇子、大海人だ!」
 瞬時に鞠香達もともとの六人が白目を剥いて硬直する。
 なにが女帝とお呼びだ。そんなことを言っている場合ではない。本当に命が危ういかも知れない、いきなり空前絶後の大ピンチである。
 一方の第二皇子大海人はというと、ささやかな仕返しに満足しながら泡を食って凝固している面々を眺めていたが、異色のアルテナの金髪、それより涙をいっぱいにした驚き眼で直視してくる玲子から目が離せなかった。
 心の一番奥に秘してあった寂しさや温かさが駆け巡る。
 皇子である大海人が、ふっと目をそらした。
「よし、訳ありらしい。御殿へ来るがよい」
 一瞬のことだった。
 命の危険をみすみす侵すこともない。ここはひとつ、皇子様の言う通りがよかろう。満場一致でにべもなく従うことにした。

 素朴な石敷の部屋に通され、頭を垂れてひざまずく面々を見下ろすように一段高いところで腰掛ける大海人。幾人もの男が戸口を固め、薄暗い部屋の中はおしなべて静かである。
 重々しいムードとは裏腹に、せっかく覚悟を決めた皆を詰問する大海人がいまいち拍子抜けしている。皇子様、金髪を問いただしながらもチラチラと玲子を見ている。
 まだ他国との交易が少ない大和朝廷からすれば、どこの馬の骨ともわからぬ金髪男など立派な外交問題であろう。本来なら縛されて牢にでも放り込まれそうなものを、甘い尋問だった。
 ほっと息を吐きながらも、皆は目だけで玲子を注視する。注目の的となっている玲子は知ってか知らずか、こちらもずっと大海人を見つめ続けていた。決してあってはならぬ態度である。
 いったいどうなっているのか。玲子を見やったまま皆は眉をひそめた。
 この変な気分の原因は、きっとこの人だ。この人が現れたらおかしくなった。身体中を鷲掴みにされたみたいに息苦しくて嬉しい。話してみたい。
 アルテナは玲子から目を離さないでいたし、そういう彼をそれぞれの想いをこめて見守っている者もいた。
 事が複雑化していくのを止める手だてさえなく、無常にも夜はやってきた。日が沈むとまだ薄ら寒い。それでも芽ぐんだばかりの青い葉のにおいが入ってくる。
 山羊のチーズやら獲れたての川魚やら、意外と口に合う古代食に大いに満ち足りて、みんなは寝室に通されても珍しそうに家具を触ったり頬ずりしたり、大騒ぎだった。それも昨晩ほぼ貫徹だったせいで、長くは続かなかった。
 大海人は、素性のわからぬ者にしっかりしたお膳を出すばかりか、寝所まで用意してくれていた。破格の待遇だったのか、こういうものなのか、それとも大海人の人柄なのかは、解する術もなかったが、多少なりとも玲子のおかげであるような気はした。
 寝台に横たわると、ものの数分で賑やかしいお喋りも寝息に変わり、待つまでもなく静寂が訪れる。
 玲子は、鉄砲玉のように部屋を飛び出した。走って走って、朝に自分達がいた紫野の中央へと立ち両指を組み合わせる。
 仮の月宮殿が小さく浮かんでいる。
 皇子様──。
 誰に、何処に向けてよいかわからぬ祈りで、身体が張り裂けそうになる。玲子は、切羽詰った胸の内から鉛玉を吐き出すように発声した。
「もう少しここにいたい!!」
 今、私達が立っているのは、夢の国の妖しく美しい硝子の迷宮。誰かのせいで迷い込んだ夢の国。この中でもう少し迷っていたい、ちゃんと自分で出口を見つけて脱出したいの。私の中に皇子様がもういるの。会っていきなりこんなの信じられない。こういうことって、本当にあるの。皇子様ともっと会いたい、話したい。
「こんな夜更けになにをしているっ!」
 男の野太い声が静寂を引き裂き、玲子を素に戻らせた。
 槍を持った衛士が、異質を嗅ぎつけたのだ。怪しい者ではないといくら説明しても、聞く耳を持たぬ者を説得するのは難しい。ついに槍がふりおろされた。
 玲子は目を瞑った。
 ──が一瞬、素早く手を引く者がいた。
 大海人だった。
「馬鹿者っ! 大切な客人になにをする! 早く自分の持ち場へ戻れ!」
 敬愛する主人に烈火の如く叱られ、衛士は肩を落としてすごすごと持ち場とやらに戻って行った。
 急所こそはずれていたが、手の甲から血が滴り落ちて紫草が染まっている。大海人は手持ちのものがない代わりに、傷口を確かめるため、とっさにその手を吸い始めた。皇族の男自らの振る舞いとは、とても思えない。
 温かい唇の感触が伝わってくる。
 玲子は泣いていた。傷は深くないものの、どうにも出血がひどい。
「止血をしなくてはな」
 呟く大海人は、顔をあげて思いがけない涙に狼狽した。
「そんなに痛むのか。すまない、御殿ですぐに薬草をつけさせよう」
 玲子は、首をゆっくり左右に振る。
 傷が痛いんじゃない。だって冒険に危険はつきものだもの。それより心が痛い。明日もいたい、ずっといたい、この人をもっと知りたい!!
 春風が夜の紫野を撫で、軽やかに髪を吹き上げると、玲子の細いうなじが誘うように見え隠れする。
 大海人は視線を逸らせた。華奢な身体から顔を隠すように、ひたすら無言で手を引いて歩く。
 繋がれた手のもう片方で、目立たぬよう涙をおさえながら大海人の後ろを歩く。月明かりが玲子を縁取り、昼間の姿とはまた違った艶を醸し出す。しかしそれは神々しいという類のもので、決して毒気のある、甘いも酸いも知り尽くした熟女のようなものではなかった。
 天女……。
 大海人は空を振り仰いだ。
 どこで出逢っただろうか。なにも知らぬ、ただ笑っていた昔日に逢ったことがあるような、柔らかな思い出が宿っている。おそらくこの先、この娘以上の者とは出逢わないだろう。
 それは大海人本人にさえ収拾のつかないものだった。自分でない何者かが、この真っすぐな瞳を愛するようにと心の最奥になにかを植えつけたような、自分自身でも信じられない強いものであった。
 玲子は、大海人の眼差しに気付くと目を逸らした。触れた手から形のない何かが行き来する。
 神様がもしいるのなら、今もう少しこの時を。
 玲子の涙が月光に滲む。

******


 時を同じくして鞠香は、訴えかけるような声を夢うつつで聞いていた。
「二人を止めて……このままではいけない……」
 以前に聞き慣れない笑い声を聞いて以来、ずっと感じていた。けれども何を言っているのか、まったく聞きとれないでいた。それを理解するために何をすればよいのかも考えなかったし、考えられるほど余裕もなかった。だが今回ははっきりわかる。心に直接染みこむような声は、どこか焦りさえ感じた。
 二人を止めろ、と──。
 二人っていったい誰と誰? 私達に何が起こっているの? あなたは誰なの?
 飛鳥の月が、夢の中でさまよう鞠香をくまなく照らし出す。
 月明かりに彩られた一本の硝子の路。どこへ辿り着くかは、あなた次第。行き着く先は隠り世? まほろば?
 各々の想いは闇を照らす夢路を越えて……やがて朝はやってきた。

 

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