長い夜を超え、明るい陽射しに包まれて目を開けると、昨日と同じ硬い寝台の上だった。
飛び起きた玲子に聞きなれた声が聞こえ、思わず目をやった手には、ちゃんと薬草の湿布がしてある。
「なんか今日は、何処にも動いてないのよ」
聖美が困ったような顔で言うのだが、それとは逆に内心大きな安堵の息をつく。みんなには失礼だが、とにかく今日は助かったのだという思いでいっぱいだった。
「気まぐれだなぁ。まさか、ずっとここに永住させる気じゃないだろうね」
鞠香がぼやくのを聞いて、ここに留まっている理由をあずさがおでこに手を当て、ああでもないこうでもないと思い煩っている。その横で歩美がくすくすと笑っているのが、まだ寝台にいる玲子から見えた。
白い光に包まれた古代の金銀調度品が静かに輝き、みんながいて朗らかな声が反響する。その状況だけを見るならば、希望に満ち溢れた一日の始まりだった。
「あれ、その手の湿布どうしたの?」
「あ、これ……」
直接参加はしていないものの、輪の端でにこやかに眺めていたドーンが湿布に目をとめた。誰も気付かないなか、なかなかに目ざとい。
玲子はどうしようか迷ったが、やましいことがあるわけでなし。慎重に言葉を選びながらポツリポツリと昨夜のことを話した。言いたくない部分はところどころ端折りながら、大体の流れをかいつまんで言葉にのせる。この想い、この感触。これは恋だと、改めて自覚しながら。
ところが本人も持て余している突然変異の不定形きわまりない心を、芸能情報を得た主婦のごとく調子にのった者たちが、数珠つなぎになって騒ぎ始めたからたまらない。
玲子は俯き何も言わなくなるし、アルテナもやりきれなくなって、こっそり外へ逃げて行ってしまった。歩美は彼を追って出て行くし、うって変わって陰鬱な空気が漂う。
後に残るのは、お調子者を嗜めている聖美の声だけであった。
「まったく、時と場所をわきまえなさいよね」
玲子にはアルテナが出て行ったわけが誰よりも分かっていたし、彼もまた玲子と大海人が共に尋常でないものを感じあっていて、入る隙などないのを自覚しているが故の行動である。
ほんとに何の前触れもなくやって来た変な感覚、どうすれば良いのかなぁ。どうするのが一番いいのかなぁ。
玲子は、まだ唇の感触が生々しく残る手の甲を、もう片方の手で握りしめた。
傍らにはこの愛憎劇を、自分が悪かったのかと後悔している内に取り残されたドーンがいた。まったく与り知らぬ急な展開に、何か言いかけて口を開けたままで二の句も継げないでいた。
「玲子ごめん……いけないことを聞いちゃったみたいで……」
玲子は驚いたように眉をあげたが、すぐに頭を振った。口許に微かな笑みを浮かべて。
「うん……ごめん」
律儀にももう一度謝るドーンだった。
部屋の中は、しばらく沈んだ雰囲気を呈していたが、おかげで玲子は腹を決められた。
こんなうやむやな気持ちは愉快でない。だいたい一刻の猶予もままならない。みんなとしっかり前を見据え集中していなければ自分がどうなるかも分からない状況なのである。自分の身は自分で守らなければ。その為には、自分で今認識している真実一つでも差し出して、一歩を踏み出さなければ。ただアルテナのことは気になるが、まずは第一歩なのである。
玲子は手を握り締め一人頷く。こうなったら一も二もなく大海人を訪ねるほかはない。なんと言っても時間がないのだ、このまま行ってしまえば多大なる後悔だけが残ることは目に見えている。それだけは絶対に嫌だ。
自分で出口を見つけたい。今日しかないかもしれないのだから。こんなんじゃダメだ、しっかりしろ私。
自分で自分を励ましながら、大海人の詰めている御殿へと真っ直ぐに歩を進めて行く。一度腹が据わると人はこうも強いのか、不安はあれど後は野となれ山となれという心境である。
その証拠に、大海人を紫野へ誘い出すことにいとも簡単に成功した。
実の所は運良く政務の合間に声をかけた故なのだが、運も実力の内というからそれも善し。一歩を踏み出すための準備は万事オッケーだ。
後は私次第、がんばれ、がんばれ私。
玲子は必死で自分にエールを送り続ける。
******
早朝から行方不明になっていた鞠香は、例の不思議な声の主を捜してまだ標野を彷徨っていた。
かすかに聞こえた方へ。それだけを頼りに辿って来てみれば、白光を受け清楚にたたずむ竹薮に辿り着いたのだった。
堆積した笹の葉を踏みしめると足の裏に心地良い感触が伝わってくる。上空で吹く風は、細葉を摩擦しざわざわざわとどこか心惹かれる気持ちの良い音で藪を埋め尽くしている。
それらしい場所に行き着いたはいいが、ここからどうやって確かめて良いのか。先を考えていなかった鞠香は、うーんと腕を組むと頭を捻った。
「おーい、誰かいますかぁ」
試しに呼びかけてみるが、耳を澄ましても返事はない。清らかな光が、笹葉の間から湿った地面を射しているだけだ。身体の重みで足跡をつけてしまうような腐葉土が足元に広がる。
声で駄目なら心で呼びかけてみようと、鞠香はゆっくりその場に腰を下ろすと瞑想するように精神を集中させた。声は届かなくても心では通じるというのがセオリーだ、と鞠香は思っていた。そういうのを何かの本で読んだ。
あなたは誰? 姿を見せて……。
瞬目に嘘のような事が起こる。
問いかけに応え、突風が吹き荒れたかと思うと、烈しい光を撒き散らし、白い衣をまとった美人が霞の中から現れた。厳かな光が全身を覆い、その姿を拝むだけで全てが浄化されそうだ。
誰……。
煙のようなもやが重く心に堕ちていく。
「よくぞ私を降臨させてくれましたね。私の名は伊邪那美、あなたの前の世でもあります」
「伊邪那美って。ちょっと待って、神様じゃない?!」
鞠香はちょっとどころか、だいぶ疑いの声音だ。しかし命さえもが危険で常識を逸脱した旅の発端が、この女神にあることだけは無意識に悟った。
「神様に前世もなにもあるの? しかも私がなんて。信じないっ」
だんだん口がへの字になってくる。頑として信じないと言い切る鞠香につられて、伊邪那美神も苦い笑みになる。
「そんなことを言われても。現に私を召喚し、声を聞いているではないですか」
「他の人には出来ないことなの?」
初めて心の琴線に触れたのか、素直な反応が出る。
「前世は誰でもその最深部に秘められています。まあ通常なら呼び起こされることもありませんが」
「通常じゃないと言うんですね?」
せっかくの開きかけた心はまた閉じて、ふてぶてしい態度で疑惑たっぷりの鞠香に、伊邪那美神も喋りすぎたと距離をとる。あまり謎解きしてしまうと、信じてもらえなくなるとわかっていたのに。
「いえ……まぁ……実は飛鳥に来たのは私の計らいではなく実は玲子なのです」
核心を微妙にずらして、自分が天下ってきた理由を切り出す。
「玲子は伊邪那岐命の三貴子である天照大神、またアルテナも同じく須佐之雄命、ドーンも月読命の今の姿です。私はあなた達に二つの使命を負わせたのです」
「です。って、そんな勝手な」
「この他の者達も心強い補佐役となるはずです。あなたやアルテナ達は元より、異空間の者達は世界の成り立ちからの、いわば代表なのです」
「世界の成り立ちって……」
最初は超絶不信だったが、ここまで言われたらいくらなんでも作り話でないことは伝わってくる。だが信じろと言うのには無理がある内容で、鞠香はやっぱりまだ半信半疑のままだった。
「この世界は、アルテナの世界、チェリィの世界、ドーンの世界、そしてあなた達の世界と私が司っている黄泉の世界。そして目的を失って生まれ変わる事さえできない荒魂の未知なる世界の、主に六つによって成立しています。でも忘れてはいけません。太古の昔、これらは一つだったのです。ですから、これらみんながあってこそ、鞠香達の住む世界があるのですよ」
「……はぁ」
理解の域を越えたスケールのどでかい真実に、至極曖昧な返事を返す。夢に描いたことはあれど、そんな現実味のない話を、つい最近まで高校生をやっていた鞠香に理解できようはずもない。
伊邪那美神もその辺は予想していたらしく、鞠香の反応に構わず先へ進む。
「ところで今回は、玲子と大海人のひどく強い共鳴が原因なのです。時空を移動するのに真空間を通るのですが、そこで玲子が飛鳥に反応してしまったのです。おそらく彼女が覚醒し、自分自身でここを発つ決心をつけなければ、いつまで経っても出られないでしょう」
「それなら、大海人皇子様も誰かの生まれ変わりなのですか? だってその理屈からいくと、玲子の前世と関わった者っていう事になると思うんですけど」
痛いところを単刀直入に聞かれて、伊邪那美神は困ったように沈黙をつくって笑した。
「いつの時代のどこの時空においても、隠された真実があるものです。あなたもいつか誠の相手に出逢いますよ。それと、私はあなたが念じてくれないと降臨できません。前世はその人の体内に秘められているものですから。なにかの時にはまた呼んで下さい、ずっと見ていますから──」
「ままま、待って! あっ……!」
差し出した手が虚しく空をかく。引き止める間もなく勝手気儘な神は消えてしまい、その神々しい光だけがちらちらと跡を残していた。青臭い香りに満たされた竹薮に、鞠香は取り残された。
「勝手に行っちゃわないでよ」
だから使命ってなんなわけ? 信じらんないよ、言い忘れていくなんて。よりによって肝心な鍵。結構神様も何だなぁ……例外ってなによ、隠された真実ってなによ。学界もビックリってぐらい道ならぬ恋でもしてたって言うの? 玲子を覚醒させろって、私も信じられないのにどうやって理解してもらえって言うんだろ。まったくもう。
イカダのクルー達の、遠く果てない旅が幕を開けたのだった。こんな見切り発車で。
勇気の水を河に引き込み、仲間を探しイカダも組んだ。やっと船出してさぁ次は。次は目的地を探さなきゃ。伊邪那美神から手渡された地図の欠片。必ず脱出口を見つけてみせる。絶対に──!
そして──みんなで還る!!!
******
神の意志を跳ね除けてまで飛鳥に共鳴し、たった一人を探し枯渇していた玲子。しかしまだ事を進展させることもなく、大海人と仲良く並んで歩いていた。
二人っきりになれたものの告白なんて初めてで、しかも自分でも釈然としない気持ちにタイムリミット付きで突き動かされて。気持ちの赴くまま当て推量に紫を摘んでみたりもしたが、『もう、どうでもいいや』と頭の回路が焼け焦げそうな自分に困り果てていた。
自分でも信じられない気持ちを、どう言えば他人に伝えられるのだろうか。大海人といられることが当たり前のように嬉しい。抑制が効かぬほどはしゃいでいる自分がいる。ずっと一緒にいられたらいいのに。
これは恋なのだろうか。今までに抱いたのとは比べものにならない、言葉にならない嬉しい気持ち。こんな急にやって来ても受け入れてしまえる、今までの私と違う、もう一人の自分と歩き出すような感覚。ずっと眠っていた私の中の私。皇子様と出逢うために眠っていた私がいる。
「で、話とは」
途端に軽やかな表情を一変させた玲子が、手の湿布へ視線を落とし再び口を噤んだ。だが今度は長くは黙らず、思い詰めたように張りつめた声で、その言葉に全気持ちを託す。
「皇子様のことをす、す…好きに……みた……いなんです」
これだけを一気に言うと、まだ言葉が終わるか終わらないかの内に花の中へと突っぷし、それっきり貝のように押し黙った。
ドッドッドッと、左胸が激しく収縮している。
言った! もう後は知らないっ! よくわからない自分の中のたった一つだけ確かな真実、とにかく伝えた。とりあえずは一歩だよね、私頑張ったよね。
大海人が、顔をうつ伏したままの玲子の前に腰をおろす。前髪へ触れると、その身体が硬直したのが生々しく伝わってくる。前髪を優しく掻きあげて顔を覗き込むと、玲子はきつく目を閉じて唇をかみしめ、これ以上ないという真っ赤な顔をしていた。
その様子に思わず笑みがこぼれる。
|