鞠香が御殿へ帰ると、朝は快活な気に満ちていた部屋が沈んでいる。
「どうしたの?」
驚きの問いかけにも、誰も答える様子がない。見かねた聖美が、出て行った皆が帰ってこない事など始めから終わりまでを話すと、やっと顔をあげた蘭子が重い調子で後を引き受ける。
「こんな状況下で、もし何かあったらと思うと心配で心配で」
しゃくりあげるチェリィを、聖美が抱き寄せ背をたたいてやる。
イカダが転覆して大洋のど真ん中でバラバラになった光景が脳裏をよぎる。鞠香は思いあまって御殿を飛び出した。冗談ではない、誰一人欠けても困るのだ。
伊邪那美様がこんな事するから! もう、何かあったらどうしてくれるのよ!
口には出さねど、独り心の中で怒鳴りながら、とにかく走る。
ぐうぐう鳴く腹をどうにか諌めつつ捜し続けた。この時代に昼食の習慣はなく、朝を食べなかったら夜までなにも出ないのだ。現代人には耐え難い。血糖値が下がって目眩がするほど空腹だ。ふらつきながらやっとのことで両組を見つけた頃には、この時代を現代の尺で計ってはならないと身を持って体験した鞠香であった。
なにをかと言うと、広いのだ。御殿の周りだけでも広い、やたらにだだっ広い。垣根で区切ってあるわけでもなく本当にただの野っ原なので、捜すといっても野原か森か、一山分を駆け廻らなくてはならないのである。
その努力の甲斐あってか、やっとこさ二組見つけた頃には陽もだいぶ西へ傾いていた。しかし声はかけずに引き返す。
とりあえず食べないことには、こんな人気の無い山で行き倒れそうである。それに髪も着物も着崩れてしまって、みっともないことこの上ない。帰路、帰ったら何か食べさせてもらおうとそればかり考えていた。その顔が不意ににやける。
御殿から離れた野の隅で、懸命にアルテナを慰める歩美を見かけた。良いムードでこの先を期待せずにはいられない。玲子に告白していた現実のアルテナを無視して、鞠香は妄想の中で都合良く丸く収めてしまっていた。
人の心は論理的に割り切って巧くはいかない。そんな事もまだわからない鞠香だった。
玲子はさっき皇子様といたし。うん、心配するほどでなくって良かった。
ほくほくと笑みを浮かべ一人で大満足しながら帰る道すがら、例の伊邪那美神の話をまた思い出していた。
玲子の気持ち次第だよって、それだけ言おうかなぁ。いざ現実であんな話をされると複雑。なんかのお話みたいにハッピーエンドでめでたしめでたしってなるのなら嬉しいけど、お先真っ暗じゃそんな余裕ないってのが本音。考え始めたらきりがない。今は深く追求するのはやめておこう。お腹空いちゃったし!
単純な思考回路しか持ち合わせていないらしい鞠香は、頭を掻きながら腹の虫を豪勢に鳴かせて急いだ。
******
温かな風が出てきた紫野では、 玲子が目醒め始めていた。
大海人が、前髪に触れているもう片方の手で顔を上げさせようとすると、玲子は躍起になって抵抗し暴れた。
大海人は、できるだけの優しさをこめて引き寄せる。
「私もそなたに惹かれている」
その返事に驚いて、また真っすぐな眼で大海人を見つめ返す。大海人の衣からは伽羅の弱い香りがした。
──遙か悠久の昔から、ずっと互いを探していたような気さえする。
二人の異常な強い想いがやっと繋がり、今この瞬間から迷宮へ堕ちたのだ。それは二人が自ら望んだことでもあった。これからどんな神罰が下ろうと、それさえ厭わない、と。
大海人の唇が近づいてゆく。玲子はその温もりを感じながらすべてを忘れたように目を閉じた。
大きな飛鳥の夕焼けが、永い疲れを癒すように唇を重ねあう二人を縁どって浮き上がらせ、まるで一枚の絵を象っていた。
久遠の時の流れを求め合い彷徨い続け、やっと見つけた大切な片われ。目を醒ましたもう一人の自分。
玲子が生まれて初めての幸せに酔いながら部屋へ足を踏み入れると、怒涛のごとく走り寄ってきて必死の形相でひたすら謝罪文句を連発する。受け手の玲子も、あんまりの態度にうろたえながらも笑みを浮かべる。
そして大海人と気持ちが通じたことを正直に報告した。今度は誰一人からかうことなく静かに耳を傾けた。
玲子は申し訳なさそうにアルテナを見たが、意外にも彼は笑みをよこす。
嬉しい。こういうのはずるいとわかってはいるけれど、でも嬉しい気持ちを抑えられない。アルテナにほほえみ返され恥ずかしがりながらも、傷を見ては昨夜の事と今日の事を思い出し、照れ笑いの上に思い出し笑いを重ねて筋肉が緩む。
それぞれが落ちつきを取り戻し床に就いたのは、深夜をまわっていた。
玲子は寝台に潜り込んで、今日一日をさまざまに思い返しながら、ニヤニヤしたり眉をひそめたりしていた。その中で鞠香からそっと囁かれた言葉を、何度も何度も繰り返していた。
──イカダの船長は今、たぶん玲子。みたいだよ。
転生がどうのという部分を、段落ごとすっぽり割愛した挙句の話である。鞠香が飲み込めないのを話したって、玲子に伝わるはずもない。
まさか私が船長だなんて、まぁは何を根拠に言ったんだろ。仮にそうだったら、きっと一生、飛鳥かもね。だって……。
玲子は寝返りをうった。空からは月星のスペクトルが地球を照らしている。
だって、やっと迷宮の出口を見つけたんだもの。だからもう少し。でも出口を見つけたからこそ、新しい場所へ出発しなきゃいけないかなあ。ほんと夢の国は果てしない。
玲子は目を閉じた。
そうして迎えた朝もやはり飛鳥にいた。
みんながあれこれ討論するのを、鞠香は昨日の信じられない話が事実だったと思い知らされた気分で我を忘れ眺めていた。でも大っぴらに玲子が舵を取っていることを話す気にもなれず、貝のように口を閉ざし耳だけを機能させていた。
なぜなら、無性に彼女自身で判断してほしかったのである。
朝食の後、玲子と大海人が紫野へ散歩に出かけていく姿を、半分祈るような気持ちで見ていた。
これってもしかすると、やきもち? 妬いているの? だから玲子からここを出ようと言われるのを待っているの?
出来る事ならずっと目を背けていたい醜い感情が鞠香を襲う。
もしこの苛立ちがそうなら、私ってば最低最悪。至上最悪の友達だよね。私ならこんな友達いらないぞ。もう。玲子が大切なら大切な分、おめでとうって思わなきゃならないのに。こんなことを考えてるなんて信じられない。自分で自分が嫌になってくるよ。ほら、まぁ、二人にちゃんと祝福を渡しておいで。
鞠香が青くなったり赤くなったり自問自答しながら二人の所へ近寄って、ありったけの勇気を河からすくいあげた。その勇気の水に助けられ、祝福を言葉にすると誰かとはもるのである。
アルテナだった。
驚く鞠香に、はにかみながら玲子が両手で握手を求めてくる。鞠香とアルテナ、それにいつの間に横にいたのだろう。他のみんなもその手を握りしめ、ちゃんと心からの祝福を手渡していた。
意外とみんな同じ気持ちだったのかもしれないね。あっ、心のあわがまた湧き出てくる。勇気も正しい使い方をすると、減らないできっとまた湧き出てくるんだね。ずっとずっと。
心のなかであわがぱちんと弾け、水になった。
いつか私も、あんな恋をしたいな。
そして嬉しそうに大海人と去って行く玲子を見送った。
クラスメイトの恋話は、どれも同じに聞こえた、聞こえていた。でもきっと違ったんだ。みんな本気、みんな精一杯だったんだよね。みんなそれぞれにドラマチック。夢のような恋ってこんなかな、案外いつもそばにあったのかな。この恋が花開いたのは、玲子自身の力だもんね。凄いなぁ。
「皇子様っ!」
呼ばれて走ってきた大海人に、紫草の花吹雪を降らせて拍手喝采する。
「さいっっこぅに綺麗っ!」
玲子が無邪気に手を叩いて笑い転げ、その舞い降りてきた琥珀色の花片を微風がまた空へと舞い上がらせる。まるでその花片が舞い上がるように大海人のなかに愛しさが募り、思いあまって玲子を抱きしめた。彼女がつけている勾玉の首飾りが、深く澄んだ玲瓏な音を流し、大海人の前には思いっきり驚き眼の顔があった。
風が巻き上げた小さな夢の破片は、古代飛鳥の天空へと未知数の浪漫をのせて舞い上がってゆく。静かに激しく口づけを交わしあう二人が横たわる周りを、紫草の花片が春霞のように舞い上がり上空で弾けていた。
大海人は胸元からゆっくり白い肌へと指を進める。玲子は身をよじるが男の満身の力に身体が思うように動いてくれず、このままずっと一緒だといいという幸福が身体中を支配した。このままこの波に揺られていたい。柔風がそよぐ水辺や緑の草原、豊葦原の温もりが、胸の空洞ではためき彼女を捕らえこむ。
優しい抱擁に今にも溶けそうになっている玲子が我に返ったのは、幸か不幸か『船長は玲子だよ』という鞠香の言葉だった。
駄目だ、このままだと本当に永住だ。今日もここにいる。みんなの未来を私が握っているのかもしれない、それなら還る。どうせ相手は皇子。いつまでも一緒にはいられないんだ、それなら還る。みんなと還らなくっちゃ、このまま流されたらイカダはきっと崩壊してしまう。
「や……やめて下さい」
大海人は、振り絞るような声音に身体をこわばらせた。
「どうしたのだ」
玲子は慌てて身体を起こし胸元のはだけた着物を整えた。苦しそうな嗚咽が漏れる。
「ごめんなさい。でも……別れるのがつらくなると思ったものですから」
玲子は大海人の複雑な顔に儚くほほえむと、大きな胸へ身体を投げだした。
「皇子様と一緒にいたい」
******
風が飛鳥野の上空を、草いきれを吹き飛ばし爽やかに吹き抜ける。節が動いてゆく。
その夜には再び風にのり、時波のなかを海月のように漂っていた。
夢を結びながら涙を流している玲子のモニターには、はっきりと豊葦原や紫野が映り、昼間の記憶を辿っていた。
「私は還ろうと思います」
「どこへだ」
「……」
玲子は無言で大海人を見つめ返した。気のせいか、いつもは明るい瞳が潤んでいるようにみえる。
「ならぬ、行ってはならぬ」
未来の天皇の、威厳に満ちた命令口調で、それでもなお引き留めようとする大海人。玲子は引き裂かれるように苦しくてたまらなくて、彼の頬を両手で包み自分から唇を近づけていった。大海人も応える。
もう愛してる、愛してしまった……!
目から滝のように涙が落ちてゆく。
后として残れと言う大海人に、玲子はひたすら同じ言葉を繰り返した。魂魄を揺すり振って悲鳴をあげながら泣いてしまいたいのを我慢して。全身を震わせ、それでも狂おしいほどの哀しみに耐え抜いて。
ここで別れてしまうのは、恋人達が別れ話をするのとは違う。今生の別れ、死ぬまで会えないということなのだ。それもお互いを恋したまま。あまりに急に始まって終わる恋を抱いて逝く。知り合う暇もなかった。魂の呼応だけの恋。また途中で終わってしまうのか。添い遂げるために逢ったのではないのか。
これ以上、今にも叫び出しそうな自分を抑えていられない。
最期の口づけを交わすと大海人もすっかり観念して、必ず帰って来いとだけ男らしくきっぱり言った。玲子は抱きしめられた腕をすり抜けると、紫野を一気に走り抜けた。
もし本当に言葉が魂を持つのなら。必ず、いつか必ず再会を!!! 誓って。
さまざまに夢を結ぶみんなを乗せて、イカダは果てしない夢の国をくぐり抜け大海原に向かって流れ続ける。まだまだずっとずっと。
玲子の沈痛な叫びも涙もすべてを時がぼかしてうやむやにしてゆく。時の作用を受けながらも、玲子はいつまでもいつまでも閉じた瞳から雫を垂らし続けた。
|