Chapter1:回転パズルの国・FantasyWorld(1)
──鞠香、起きなさい。
──玲子、皆、起きなさい。
頬に冷たいなにかが触れ、鞠香はゆっくりと目を開けた。
手をやると、水滴だった。
どれくらいここで寝転がっていたのだろう。硬くなった上半身を起こして辺りを見回すと、そこは、苔むした大木が生い茂る泉のほとりだった。ちょうどここだけが開けて光を受けている。
樹海……。
日常あまり使わない単語が脳裏をよぎる。
太い幹の隙間から、うねるように森が伸びているのが透かし見えた。まるで終端がないように木が続くばかりだ。
鞠香は、思わず肩を震わせた。せいぜい低山でハイキングした経験くらいだ。こんなに薄暗い、どれほど山奥かも計れない森に、なにも文明の利器を持たず入ったのは初めてだった。
パーティ皿ほどの泉からは、こんこんと水が湧いている。無色透明の水面は、ひっそり静まり返って、波が風の跡を追って走った。
鞠香は、まず全員が揃っていることを確認する。聖美、歩美、蘭子、あずさ……玲子、各姿をとらえて、とりあえずは肩をなでおろした。
一人また一人、意識を取り戻し、周囲を見回しては考えこんでいる。
鞠香は苦虫を噛み潰したようになった。誰が見たって、どう見たっておかしなことが起きている。夢ではないらしい。
きれいなところ……。何処なんだろう……。
嘆息が漏れる。つい今し方まで、自分の部屋で過ごしていたのに、瞬きをする間にこんな所に来ていた。まるで俗に言うテレポートではないか。信じようが信じまいが、事実移動している。それでも受け入れ難い。
しばらく無言で推察していた一同は、急に肩をビクつかせると身を翻した。年長者である聖美の周りに集まって、石のように耳を澄ます。
確かになにかが聞こえてくる。まだ柔らかい萌黄色を踏みしめる音、間違いなくなにか生き物の足音だった。
間もなくして正体を現したとたん、一斉に息をのんだ。
人間である。その容貌というのがまったく異常で、男のくせに陽に反射する金の髪を腰まで垂らし、あろうことか古代ギリシャのような薄衣をまとっていたのだった。
誰一人欠くことなく、世界規模の時代錯誤に陥る。場所の移動さえなければ、何かの撮影、もしくはこれが噂に聞こえるコスプレだと思いこめたかもしれない。
鞠香が頭を抱えて、人生これほど苦悩したことがあるかと真剣に悩む横で、歩美が言うのだった。
「エルフの森の王子様みたいね」
えーっ、エルフの森ぃ?! この非常事に、なんでそんなことを思いつくのだろう。
さすがに文句がこみ上げてきて、今にも口に出そうになるのを、寸での所で堪える。時々こういうことを言うのが、歩美らしさなのだ。解っているつもりだ。
青年も突然現れた異国情緒満点の六人に、驚きは隠せない様子だったが、耳を疑うような言葉を、それでも確かに口にした。
「玲…子……?」
「えっえぇーーーっ?!」
地球が逆回りしそうな大音声で答える。そして揃って、玲子を振り向いた。当の本人は、顔面蒼白になってひたすら手を振っている。どう見ても、知り合いではなさそうだ。
彼の問いには、全員の驚きこそが正答だった。イエス以外なにものでもない。この後に続くのは 「なんであんたが玲子を知ってるの」 だ。
玲子本人も、目を皿のように見開いて、男の次のリアクションを待っている。
青年は立ち直りが早いのか、単に頭がおかしいだけなのか。すっかり気を取り直して一人一人名前を言い当ててから、名を知るきっかけを話し始めた。
妙ちくりんな格好といい、どう考えても合点のいかぬ問いかけといい、ただの変態ではなかろうか。言葉にせずとも、胸中は同じであった。
その理由とやらによると、こうだ。
ある日、散歩に出てみたら泉があった。あまりの名水に何気なく覗いたら、皆が映った。驚きはしたが、さして珍しいわけではないので楽しみに通う内に、音声でそれぞれの名前を覚えた。
水がテレビみたいに映ったら不思議でしょう? 珍しいでしょう? 私達が映っていたなんて、じゅうぶん変じゃない。どうなっているの。
鞠香の心中などお構いなしで話は続く。
「これは幾らかしてわかった事だが、あなた達の所とここでは時空が異なるらしい。別の時空と関わるのはさすがに初めてだ。びっくりしたよ」
とうてい信じられない話を付け加えると、男は改めて向き直った。
これ以上まだ何を言うのかと身構えてみれば、アルテナと名乗るこの男が、この世界の王子だと言うのである。
蘭子がやおら怒気した表情で立ち上がると、アルテナをさすったり撫でたりして生身の人間なのか、いやせめて同じ生き物なのか、その存在を丹念に確かめた。だが冗談でもなく夢でもないことが判明すると、またもや 「うーん」 とうなって座り込んでしまったのだった。
この中では誰よりも現実的で、冷静な目を持つ蘭子である。その彼女が、冗談でもなく夢でもないと認めたからには真実なのだろう。たぶん。
それなのにアルテナは、顔を赤らめ上ずった声をして、ぜひ城へと誘うのである。
はっきり言って、それどころではない。傾いた頭の地軸を、正常に戻す作業で精いっぱいだ。
けれど得体の知れない樹海で、ずっと立っているわけにもいかないし、夜までに無事帰れる保証もないわけで。とりあえずは、人の住む場所へ移動した方が良かろうと、現実的に対処することにしたのだった。
自分達ではもう何が現実で非現実なのか、わからない。鞠香などは、新手の白昼夢かと考えているくらいだ。
ちょっと妄想が入っているが、危険人物ではなさそうだ。とは全員一致である。
彼が指さす先には、確かに一国の主にふさわしい白亜の城が臨める。遠方なので小さく見えるが、木々を飛び越して、崖の上にそびえ立つ塔の群れは相当数だろう。男の衣装とは裏腹に、中近東の寝物語を思い出す。
少女趣味の歩美が、一目で子供の時の夢を見たらしく、感嘆の声をあげ涙ぐんでいる。どうやらまんざらでもないらしい。
こと、おとぎ話に目がない歩美は例外だとしても、みんなには許容量を超えていた。王子の話に整理をつけ、幻まで見えるひどい混乱から脱出しようと、しかめっ面になって考える。
ちょっと信じられない。絶対戻れるとか、命に危険がないなら映画そのものだけどさ。とりあえずは一人きりじゃなくてよかった。こんなの一人では心細いもの。
鞠香は知らず知らず、強力ボンドのように聖美に引っついていた。
聖美が、物言わずコツンと頭をぶつけ、腕を絡ませてくる。
私ったら。きょんちゃんだって不安なのに。
──ありがとう、心配しないで。
言葉にするのは気恥ずかしかったから、絡んだ腕に力を込めて返す。聖美はにっこり満面の笑みを見せてくれた。鞠香も照れを押し隠した奇妙な笑みで返す。下を向きながら。
おかげで幾分心が軽くなって、周囲へとチューニングを合わせてみると、アルテナの話はまだ続いていた。改めて耳を傾ける。
「泉に映っていた世界では魔法を使わないみたいだけど、ここでは当たり前に使われているんだ」
魔法……って、あの魔法?
あまりにも現実離れしていて、目の前が真っ白になる。
「魔法ですって?!」
隣にいた聖美が大声をあげる。その声が妙に遠く聞こえる。
この環境の大異変は、いくらなんでも行き過ぎだろう。まったくもって限界という境界線を越えていよう。
その思いは皆同じで、アルテナが意味深に頷くのを切るようにして、蒼ざめた蘭子が心のまま叫んだ。
「証拠を見せなさいよっ!!」
待ってましたと言わんばかりに、真剣な顔をしたアルテナが、まだ息が騰っている蘭子から順に一人一人を、その不思議なまなざしで見つめていった。
どうだろう。だんだん服が消えて、おしまいには例の薄衣になってしまったではないか。
あまりにも非科学的な現象に、たった今眼前で起こったにも関わらず、実感がわかない。けれども服は変わったのだ。手も触れずに。信じざるを得なかった。パニックに陥って声さえ出なくとも。
アルテナが、寂しそうな面持ちで言葉をかける。
「俺の魔法は、一つずつなら空間を跳ぶこともできるから、きっと還してあげられるよ。だから、まずは城でゆっくり休むといい」
心のこもった言葉に、こわばった表情が少し和らいだ。良かった良かったと口々に嘆息を漏らし、中途半端な笑みを交わし合う。帰る方法が、全くないわけではなさそうだ。
城に到着すると、バルコニーの見える大きな半円窓の一室へ通され、賓客のようにもてなされた。
暑くもなく寒くもない風がよく通って、爽やかな部屋だ。緊張がだんだんほぐされていく。
開け放たれた窓からは、わずかに潮の香りがする。王宮にありがちなペルシャ絨毯の上には、おとぎ話にはつきものの天蓋付き超キングサイズベッドが、迫力満点で乗っかっている。女の子なら、誰しも一度は憧れたことがあるはずだ。
「わーい、ふかふかのベッドだぁ」
部屋へ一歩を踏み入れるなり、あずさがベッドに向かって一目散にジャンプする。
あまりに勢い良く飛び乗ったため、地に陥没するのではないかと心配するほど落ちこむと、今度は天蓋近くまで跳ね上がった。
あずさは揺られるがままになって余韻を楽しんでいる。もう至福の顔である。
それを見た鞠香と玲子も、我先にと豪勢な幸せの波に呑まれてゆく。もし自分の部屋でやったなら、絶対床が抜けてしまったに違いない。賭けてもいい。
「気持ちいいぃぃー!」
後発の二人の声が重なる。これにはアルテナと、案内人もあっけにとられていたが、やがて顔を見合わせると、これ以上ないくらいまで目を細めた。
アルテナにしてみれば、彼女達が迷い込んでから初めて見た笑顔である。水鏡を通していつも見ていた元気いっぱいの笑顔だった。
彼にもやっと、初めての笑みが灯る。
城は、シンデレラ城なぞとは違い、もっとエキゾチックな、紺碧の海がまぶしい白亜の宮殿だった。城内には昔夢に見た天蓋付きのベッド、脇に置かれたテーブルには色とりどりの甘いお菓子、隅には古い大きな暖炉、銀の燭台などと、永住したくなるような要素が山盛りてんてこ盛りだった。
はっきり言って状況は最悪だったが、ゆゆしき事態を一時的にでも忘れ去ってしまえるほど、夢がぎっしり詰まっていた。
その上アルテナが話すのは、絵本から飛び出したような話ばかり。単純にも心は軽やか。いつもの好奇心が、倍の勢いで襲ってくる。これは困った。自分では制御できない。もちろん最初に口火を切ったのは、動く好奇心の塊あずさだった。
「外に出よう!」
こうなってくると止まらないのが、メンバーの常である。
「行こう! 行こう!」
「ね、連れてって」
次から次へ飛んでくる言葉に、アルテナも嬉しそうに立ち上がった。
「よし、案内しよう」
「やっりぃー!」
たちまち部屋中が歓喜の波で湧き上がる。神輿かついで練り歩こうかという騒ぎっぷりは、逞しいというのか、揃いも揃って気丈であることだけは間違いない。これでは、どちらがイカレているのかわからない。
「ふふ……」
女性の笑い声。
誰……?
鞠香は声がした方に目を向けた。けれど、それらしい姿はない。
空耳?
「どうしたの、早く行こうよ」
「あ、うん……」
煮え切らない答えを返す間にも、先頭集団は跡形もなくなっている。慌てて鞠香も続く。
アルテナの話によれば、森には精霊がいて、高い山のてっぺんにはドラゴンの家族まで棲んでいるという。もし本当なら、一度は見てみないと誰だって引き下がれやしない。胸が踊る。
鞠香の慌しい足音が去っていくと、急に静かになった。相変わらず潮の香りを乗せた風が、部屋中を満たしている。
走りかけた玲子は、呼び止められるまま皆を見送っていた。
アルテナである。
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