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DREAM1 〜月見野原の雫

モドル | ススム | モクジ

 


 長屋が立ち並ぶ活気に満ちた商店筋を抜けると、家もまばらになって田んぼばかりが目立つようになってきた。植えられて日を経ない若苗が、鏡のような水から伸び上がり空を見上げている。水面には、空の雲が自然の文様を描いていた。
 鞠香は約束の野原へと急いだ。時折前につんのめって転けそうになりながら、それでも急ぐ鞠香の目に、豪華絢爛きわまりない城が右に見え左に見えする。香代が蛍灯に抱かれていた、あのデジャ・ヴのような光景が頭をよぎるが、それでも心が急くのに逆らえない。
 自分はなんて無情なのだろう、だけど会いたいと思う。ただ会うだけでいい。この気持ちが何たるかを認識するより先に駆けていた。
 鞠香は思いっきり首を振ると、頭の映像も心のもやもやも全部かき消した。『声』が聞こえるような気もするが、聞く余裕は微塵もない。また会えるという衝動だけに駆られて走っていた。足がもつれそうになっても、転んでしまうのさえ時間が惜しい。
 息をきらせて野原へ駆け込むと、それらしき姿はない。全てが夢だったという黒い現実がどろどろと押し寄せ、自分が押し潰されてしまうような気に苛まれたが、程無くしてそれらはすっかり飛び散ってしまった。
 走り寄ってきた蘭丸が、同じ考えを告げたのである。
「今日はどんな話をしようかと、ずっと思案していた」
 冗談ではない事を、熱い声音が伝える。
 でも二人の間には、どうしても香代がいる。それは拭い去ることのできない現実なのだ。答えそこねて嗚咽をあげる鞠香を、蘭丸は静かに見つめた。
「夜に会おう」
 衝かれるように顔を上げる鞠香。
「夜の闇が、私たちを今より隠してくれるかもしれない」
 人目を忍んでも会いたい。その気持ちが嬉しかった。相手が同じように考えてくれているなんて。
 どこかでストップをかけなければと、必死に弱気を奮いただす。今ならまだ止められるはず。
 会って間もない人に、あんな絆を持った恋人がいる人に、いつ別れが訪れるかわからない人に、一時停止をかけなければ。なのに、どうしてもこのまま流れていきたい。会いたいと思う。彼が会いたいと言ってくれるならなおさら。会って楽しい話をするだけでいいのだ。少し彼のことを知りたいだけなのだ。
 このことがバレたら、香代を悲しませることはもちろん、あんなに香代を応援している皆を失ってしまうかもしれない。やっと出来た家族、気のおけない友達。自分にはあの人たちしかいない。それでも会いたいのか。迸る気持ちは、横たわる現実も、かけがえのない人をも隠してしまう。論理的思考を消し去ってしまう。
 ただもっと話したいだけ。そんな気持ちじゃないもの。ちゃんとわかってる。
 妖しげな空気で頷く顔を、蘭丸の指が撫で、唇が頬をつたって下りてきて、思わず唇をかみしめた。
 萎んだ月見草の陰で鞠香を引き寄せると、蘭丸は諦めにも似た眼差しを向けた。その視線を受けた鞠香も、腕の中から泪目になって見上げる。
 切れ長の目がほほえんでいた。
 多くの悲しみを知る眼、多くの辛苦を見てきた眼。現代の男の子には感じなかったひたむきな眼を、蘭丸は持っていた。その厳しさの上に重ねられた笑みは、深く重い真実だと思う。信じられる。

******


 漆塗りの膳から湯気が立ち上っている。湖から水揚げされたばかりの新鮮な魚に野菜の煮物、うまく野菜屑を使った汁物、これに香の物と飯がついたものが湯気をあげて乗っかっていた。
 窓が開け放たれ、涼風と共に、清々しい鉄をうつ音など、周囲の店が活動を開始した音に満ちている。薄い板作りは何でも聞こえるのだ。
 朝餉の席で、聖美がひとつの案を投げかけた。
「今日もここにいる、ここからいつ動くかわからないでしょう。でもお金もなにもない。どう、みんなで働いてみない。お金はいくらあっても困らないわよ」
 みんなの顔が輝く。アルテナの時空移動の魔法も、同じ時軸の過去にあっては通じない。神頼みしかないのだ。もしかしたら帰れない可能性がいよいよ色濃くなってきた中で、まったく活力になる提案だった。
 将来国王になるべく教育されたアルテナも、内心舌を巻く見事な舵取りだった。
 特に最後の一言が功を奏したようで、食事を終えるとさっそくアルバイト探しに散ったのだった。同じ日本国といえど、ここは群雄割拠の時代。何があるかわからないので、必ず複数で行動することにも議決した。二人以上を同時に雇ってくれる、というのが絶対条件だった。
 しかし大きなお屋敷でもない限り、現代のようにビラなんか貼って公募しているわけではない。それを同時に複数の雇用だ。出産したばかりの隣のオバチャンの手伝いぐらいなら口はあったが、まさか九人もいっぺんにはいらないだろう。田畑の手伝いと言えど、見知らぬ人間をいきなり大抜擢してくれる所はあまりなく、あとは伝手がないとなかなか難しいことでもあった。
 伝手といえば、香代だ。城で台所仕事をしていると言っていたし、蘭丸の邸宅でも働いていた。
「えぇぇ、働き口ですか」
「何でもするから、何かないかな」
「お願いします!」
 仕事中の香代を呼び出してもらい、下働き用の勝手口の、ほんの入り口脇で、手早く切り出す。
 蘭子の背に連なる皆を見て、腰も抜かさんばかりに驚いた香代だったが、やがて可笑しそうに口許を押さえると、晴れやかな笑みを見せた。これが本来の香代なのだろう。笑いは長いこと続き、皆もこそばゆくなるほどだった。
「いいですよ、長に掛け合ってみるわ。蘭丸と妙向尼様にもお話してみるわ」
「ありがとう!」
 蘭子が礼を述べ和いだ輪のなかで、鞠香はひとり陰鬱な思いでそっぽ向いていた。その視線の先には畑が広がり、梢を透かして淡海がゆらめいている。
 香代は、あのことを知っているのだろうか。後ろめたい気持ちがゆらゆらと立ち上ってくる。そして蘭丸邸で雇ってもらえたらという甘い考えと、香代の目がある所では居心地悪いという思いとが、せめぎ合っていた。
 妙向尼とは、出家した蘭丸の母である。香代はその母と蘭丸達と暮らし、あまつさえその母に我が子のように可愛がられて育ったと聞いている。蘭丸が館にいなくとも、彼の懐で仕事が出来るのは嬉しいと思うが、さすがにその中に入るとなると息が詰まりそうでもあった。
 城中はやはり胸が塞ぐが、台所の棟は離れているし何とかなるか。出来ることなら平和にお隣のオバチャン家がいいが、少しでも蘭丸の側にいたい。複雑な乙女心であった。

 夕餉の折には、膝をつき合わせて、探し当てた働き口の希望を募った。
 隣の商家の手伝い、蘭丸邸の下働き、台所仕え、もしくは何処になるかわからないが城の下働き。隣家は二人ほどでいいとのことだ。残り七人が、蘭丸邸か城仕えになる。
「はいはいはい! お城がいい、お城お城お城ーっ!」
 張り切って大声をあげているのは、あずさである。ほぼ全員が城仕え希望だった。この際、通常なら絶対できない仕事のスキルを身につけようとする者多数で話にならない。まして香代を泣かせている蘭丸邸など、もし希望があるとするなら、彼に文句を言うために他ならなかった。
「ふぅ、これではなかなか決まらないわねぇ」
 聖美がたらふく食ったと言わんばかりに、箸を置くと後手をついて足を投げ出す。
「城なんかよりも蘭丸の家の方が生活感はあると思うけど」
 金髪を憚って商家に名乗りを上げていた王子がぽそりと呟く。なんといっても城の経験者だ、現実味がある。
「うーん、そっかぁ。じゃ蘭丸邸に行こうかなぁ」
 あずさが唇を尖らせて真剣に独りごちるのとは別の意味で、歩美がそちらへ志願する。この中では唯一料理と裁縫どっちもこいの歩美が、それを活かせるだろう方を選んだというわけだ。
「そうねぇ、適材適所よねぇ」
 呟く聖美に、
「それならアルテナときょんちゃんがお隣へ行きな」
 あっさり蘭子が言ってのける。皆も同意する。
「口の立つのが行って、売上げに貢献よ」
 蘭子が歯をむき出してニンマリ笑うのを、ハンサム王子アルテナが一緒ならそれもいいかと、下心見え見えで承諾した聖美であった。
 今度は聖美が、その大きな口を弓なりにして妙な笑いを返す。何を考えているかは長年付き合った者には丸見えであった。しまったと思った者が複数いてももう遅い。
 どこへ行ったものか、黙って事の成り行きを見守っていた鞠香、それに蘭子に玲子とドーンが城仕えになった。チェリィは、なついている歩美にくっついて蘭丸邸である。年端がいかないので、大きな歯車の中に置いておくのが不安という、お姉さま方の心配があったりもする。
「よぉぉし、一儲けするぞー」
 あずさが伸び上がって号令をかけると、全員がそれに頷き返す。生活を、生きてゆく術を、そろそろ見つけなければならない。

 漆黒の空に、滴るような星空が月見野原をすっぽり覆い、蛍灯が遅い月の出を待って揺れている。
 鞠香は、五臓六腑が空っぽになるような不安と懸命に戦っていた。
 蘭丸が来ない。
 やっぱり、からかわれていたのかもしれない。それをいい気になってほいほい出てきて。彼はもう来ないのではないかという思いが、腹の中ににどんどん溜まってゆく。その度に、来ると言ったのだから来るという気持ちが、どうにか鞠香をここに留めていた。
 来て欲しい、彼に騙されたくなんかない。信じさせて欲しい、信じていたい。会いたい。
 来ないかも知れないという事実を前に、辺りを見回すのにも恐れを感じた。けれど見回さずにはいられなくて、よく目を凝らして彼がやって来るだろう方向を凝視し続けていた。
 不意に何かが土の上を叩く。牧歌長的なのんびりした音、どこか聞き覚えのある音。
 待ち人が、檸檬色の海の彼方に黒い影となって現れる。
 とたんに鞠香は、月見草の波を押し分け、無我夢中で歩き出す。大股で今にも走り出しそうになりながら、底なしの不安を埋めるかのように突き進んでいった。
 馬上の人もすぐ気付き、馬を下りると駆け寄ってきてくれる。
 鞠香は、本当はその胸に飛び込んで安心を噛みしめたいのを辛抱し、ただ名を呼んだ。
「すまぬな、待ったか」
 首を振るところを、つい頷いてしまって慌てて取り繕った笑みを乗せるがもう遅い。
 蘭丸が、その心中をいっぺんに見抜いて笑い出す。
 でもいいのだ。なにはともあれ来てくれた、騙すつもりなどなかった。一目見ればそれが信じられるのだ。どこまでも堕ちていくような、先ほどの不安はなんだったのか。
「待ってなどいません、さっき来たばかりです」
 蘭丸は吹きだした。またクスクス笑いがとまらない。始めは腕を組んで横目にしていた鞠香も、あまりに続く笑いに連鎖して、二人でお腹に手をあてて笑いを噛み殺す。お腹の中は愉快さでいっぱいだった。
「おもしろいのう、鞠香は」
 あまり褒めてもらっているとは思えない言葉だが、それでも嬉しい。我ながら単純だと思うが、感じてしまうものは仕方がない。
 突然、馬が荒い息を吐いて足を踏み鳴らしたので、鞠香の心臓が跳ね上がった。
「よしよし、お前も思うか」
 初日に鞠香も乗せてもらった馬の首を、なにやら失礼なことを言いながら撫でると、蘭丸の顔に擦りつける。馬の表情なんぞ考えたこともないが、今は笑っていると思う。大好きなご主人に愛撫されて喜んでいる。
「よく馴れているね」
 感心しきりの鞠香に、蘭丸が笑みこぼれた。
「こやつも、そなたを愉快だと笑っておる。触れるとわかる」
 わざわざ鞠香が触れられる部分を空けて、蘭丸が言う。
 馬におもしろい奴だと言われたって嬉しくもなんともないが、蘭丸の愛馬だと思えばそれさえも幸せだ。彼を囲むすべてに好かれたい。生き物だけではなく、そよ吹く風にさえ。周囲すべてに認められたい、仲間入りさせて欲しいと思う。
 やっぱり底抜けにバカかもしれない。自嘲しながら恐々と手を伸ばす。
「こんばんは、鞠香と言います」
 よろしくね。仲間に入れてね。
 爪先が触れてもビクともしない。鞠香の一挙一動を、おっとり見守っているだけだ。触れられることを拒んでいる様子はまったくない。獣の持つ体臭が鼻をつくが、生きている証なのだから、嫌とは思わなかった。
 恐怖感を解いて指の腹で触れてみると、意外にしっかり生え揃っている体毛を通して、生きるものだけが持つ温もりが伝わってくる。とても慈愛に満ちた温かみは、鞠香の中にあった垣根をすっかり取り払って、ただ受け入れてくれる。鞠香そのままを。
「うわぁ……」
 知らず知らず歓声がもれる。馬のように大きな動物に触れるのは初めてだった。怪我はしないと認識できると、背に触れていた手を鼻面へ持っていき、吃驚させないようにゆっくり動かしてみる。彼はわざとそうするように、じっと鞠香を見つめて佇んでいる。
「優しい目をしているねぇ」
 蘭丸に向けたわけでも、馬に向けたわけでもなく独りごちる鞠香を、蘭丸は優しく見守っていた。
 馬が珍しい世ではない。少なくとも蘭丸が関わってきた人々の間では決して珍しくなく、日常のなか常にあるものだった。こんな言葉をかける鞠香の方が珍しかった。
 もうすぐ風待月だというのに、さやさや吹く風が鞠香をくるんでいる。その風に蛍が明かりをともす。
 不思議である。弱々しさを隠す器量もないくせ、何者をも寄せつけぬ強さも持ち合わせている。清んでいる。まるで颯爽と吹きわたる夏風に香る草いきれ、一点の曇りもない青空に浮かぶ羊雲。幼き日、広い草っ腹に寝転がった温もりを思い出す。まるで大地に包まれるような、側にいるだけで言い知れぬ心地良さに満たされる娘だ。
 蘭丸は、つと鞠香の髪に触れた。
「どこかを廻った後、ゆるりと送って行こう」
 急に情けない顔になる鞠香に、蘭丸が笑み崩れる。
「ゆるりと、と言っておるではないか」
 その頭をぽんぽんと叩くと、先に鞠香を押し上げてから自分が乗馬した。
 もっと一緒にいたいのが見え見えだ。素直で真っ直ぐな好意を嫌がる者はいまい。蘭丸も腹の底にくすぐったさを覚えた。
 遅い月が昇っている。波打つ淡海がわずかに闇を揺り動かす。野原を出た往来は、もう静まり返っていた。

 

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