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DREAM1 〜月見野原の雫

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 藍色の部屋に一条の光が差し込んでくる。食器を扱う音の脇で、持ち運び式の灯明台から明かりが放たれていた。円を描いたように、そこだけがぼんやり明るい。
 まだ夜も明けやらぬ微妙な時間に、朝食を持ってきてもらったのだ。そういうところは迷惑をかけるかもしれないが、お代を払って世話になる方が気持ちいいので、あえて目を瞑ることにしている。
 誰かが手探りでこちらの灯明台にも火を灯し、暗い部屋に起きよとばかりに喝が入れられる。低血圧の鞠香もなんとかかんとか上半身を起こし、そのままぼんやり座していると、
「ほらほら、さっさと布団をたたむ」
 張りきる聖美に掛けていた上掛を引っ張りあげられ、床板の上へ放り出されてしまった。その後をくるくる畳まれた簡素な敷茣蓙が追う。
 今日の夜、蘭丸様に会えるまで起きていられるかなぁ。
 鞠香は着くずれをなおすと、髪をとくでもなく、ただヌボーッと湯気のあがる汁に口をつける。喉もとをしじみ汁が落ちていき、身体の中が温かな幸せで満ちていく。
「はーぁ」
 期せずともため息がもれる。
 スローモーションのような手つきで、香の物と一緒に姫飯を口へ運んでやっと、だんだんに頭の中がはっきりしてくるのだった。
「もう。家にいる時とちっとも変わってないの」
「だって三十分しないと脳みそが起きないんだもん」
 聖美が文句じみて言うが、鞠香の低血圧ぶりは今に始まったことではなく、その目が笑っている。とにかく朝が弱くて、落ち着いて家を出られた例がない。
 朝の弱い者も、すっきり目覚められる者も、みんな揃って早起きだ。城や屋敷の朝は早い。食事を終えるとすぐ、それぞれの持ち場へ飛び出して行く。

「ささっ、蘭丸様お着替えですよ」
 気味が悪いほど元気ににっこりされ、蘭丸はひどく怪しみながらもその衣服を受け取る。いつもなら香代が着せてくれるのだが、見知らぬ女に着せてもらう謂れはないので、自分で着用することにしたのだ。
「見かけぬ者だが……」
 その背後から、やんちゃな幼子のごとく目を輝かせた香代が顔を出した。さらに後ろから楚々とした歩美と、ちっちゃなチェリィが続く。
「うん?」
「この方々は私のお友達なのです。働き口を探していたようなので、蘭丸のお世話をお願いしたの」
「……主に、一言も相談なしでか」
 香代が、予想していた展開に肩をすくめ、チェリィへと腕を回す。
「妙向尼様とね、ちょっと驚かしてやろうって」
 蘭丸がひとつ息を吐いた。もちろん会話をしながら、手も一緒に動かしている。
「母上の仕業か、しょうがないな」
 そう言いつつ新入りを見回し、
「しっかり働いてくれ」
 軽く愛想笑いを浮かべて食事に移っていった。もう頭は登城している蘭丸だ。食事をしながらも、今日の予定や細かなことを考えながらである。それでも立ち働く人々と朝の挨拶を交わし、ようやく物という物の縁があけぼのに輝く光の中で、家族と談笑して館内はとても和やかであった。
「あんまり意地悪そうじゃないねぇ」
 チェリィが歩美とあずさを見上げて呟くと、二人は困ったような表情をしてチェリィを追いやるのだった。
「さ、仕事仕事」
 戦国武将の屋敷もなにかと仕事山積みである。下っ端は常に戦闘状態なのだ。

 満ちゆく月に、黄色く縁取りされた黒雲がたなびき、雨の匂いを吹き降ろすと、月見草がいっせいに波紋ならぬ草紋を作った。その間を、ふわりふわりと蛍が浮遊する。
 鞠香はひざを抱いて座りながら、揺れる檸檬色を眺めていた。その目はもう半開きだ。頭が落ちて傾ぐ身体に我に返っては三白眼で花を眺め、を繰り返している。
 蘭丸様、まだかなぁ。小姓のお仕事って長いんだなぁ。
 夜明けから慣れない所で働いて、もうクタクタだ。鞠香の頭がまたもや上下し、そのまま夏草のなかに沈んでゆく。花の波をかきわける音にも気づかず、眠り込む鞠香だった。
「どうりで捜しにくいはずだ」
 蘭丸が口の端をあげ呟く。そして周囲を見渡した。
 だいぶ離れてはいるが、土が盛り上がり低木の生えている場所がある。
 蘭丸は鞠香を抱きかかえると、どうにか木の下まで運び込み自分も腰を落ち着けた。その間も鞠香は、健やかな寝息をたてて夢の中である。
 蘭丸はその様子にしばし微笑むと、手のひらに顎を乗せた。
 かすかな蛙の声に混じってそよぐ風の音がする。広い野原は見渡す限り淡い檸檬色で覆われ、月が雲間から顔を出した時だけ、檸檬色がわずかに黄色い影を帯びた。その果てで朱金の城が、淡海に抱かれている。沿岸のチャプチャプいう音が聞こえてきそうである。
 もう夏だな。
 無邪気な寝息に、気を張っていた一日から開放される。静かな心和むひとときだった。
「う……ん……」
 寝心地の悪さからか、やがて鞠香が薄く目を開き慌てて飛び起きた。
「蘭丸様っ、来てたの。あれ、ここ……」
 鞠香は月明かりを零す葉陰を見上げ、蘭丸へと視線を戻す。
「なかなかに重かったぞ」
 にやりと笑う蘭丸に、鞠香の顔が瞬間沸騰する。それを蘭丸がまた笑ったために、さらに沸点を超え、茹で上がったタコのようになる。
「だって夜明け前に起きたんだもん」
「私だって日の出前に起きるぞ」
「蘭丸様も? 日の出前に起きて、いつも今まで働いているの」
 赤らめた頬が元に戻ってゆく。蘭丸も、なにを今更というように眉をあげた。
「鞠香に会えると思えばこそ、疲れた身体を引きずって来てみれば。寝ておるとはなぁ」
 そらとぼける蘭丸に、みるみる鞠香の表情が落ち込む。蘭丸はまたもや笑い出したいのを堪え、小さな肩を抱き寄せると、頭を軽くぽんぽんと叩いてやる。
 空っぽになる。鞠香のなかのすべてが流れ去り、安らかな温もりだけが隈なく満ちる。見上げると、いたずらいっぱいの切れ長の目で見つめられていた。
 私、この人に惹かれているかもしれない。蘭丸様といると楽しい、とってもとっても安心する。これを幸せ……って言うのかな。
 もっと知りたい。どんな仕事をして、どんな暮らしをしているのか、ただ知ってみたい。その中でどんな風に香代と関わっているのだろうか。聞けたものではないが、常に頭のどこかを占めていた。
「眠くないの?」
 冗談で返される前の、日の出前に起きて今まで働いて眠くないのかという、長い間を挟む問いである。
 蘭丸はすぐに思い至って、口元に笑みをたたえると、前方を向いた。
「大いなるものを成し遂げるためだから」
 柔らかな口元とは違い、毅然とした瞳が月明かりに輝いている。自分には生きる目的などあっただろうか。鞠香は引き締まった横顔に見とれ、困惑した。
 続いて、これでも早い上がりなのだと言った。夜番はもちろんのこと、宴会などがあると泊まり込みになるとのことで、城仕えを始めた鞠香が内心イヤな予感にとらわれたのは言うまでもない。労働基準法なんぞない、働いてなんぼという時代はなかなかに厳しいのであった。
 ここで慣れて、もし帰ることができたら、どんな就職先でも平気かも。
 悩める鞠香の頭を、蘭丸が何気なさを装って自分の肩へと導く。
 恥ずかしくて黙りこくる鞠香に、蘭丸まで無口になる。
 どうしよう、間がもたないよ。こういう時はどうしたらいいんだろう、何か喋ってよ。
 なにか話さなければと焦るものの、なにを言っても浮いてしまいそうで、ただ甘酸っぱい想いに身を任せた。
 嬉しさが湧き上がる。照れくさいのに、嬉しさがこみ上げるのだ。
 出来る限り一緒にいたい、こんな風に同じ時間を共有したい。近づいていきたいの。力になりたい、自分にも心許して欲しい。自分だけに笑いかけて欲しいの──。
 やっと胸に落ちてきたひとつの想い。
 もう恋は始まっている。止まらない。
 ふと雲が月を隠し、雨が落ちてきた。
「今宵はわざと馬を置いてきたのだが、読み違えたな」
 蘭丸が両膝を折って木の葉の傘に身体を隠したので、鞠香も倣って三角に膝を折り雨を凌ぐ。徐々に空気が冷やされ、初夏とはいえ薄い小袖で寒さがつのる鞠香が身震いすると、蘭丸が頭を抱いていた手で肩を引き寄せた。温かな胸のなかに入れてくれる。
 とくん、とくん。
 乱れることなく確かにうつ鼓動に、五月雨の細い雨音。
 ぼそりぼそりと、蘭丸が穏やかに話している。それは取るに足りない内容だったけれども、落ち着いた彼の声を、その腕に包まれて聞いているのは気持ちがよかった。
 ただ心地いい。幸せ、かもしれない。
 いつの間にやら、二人して眠ってしまったらしい。肌寒くて目を覚ました鞠香の頭上に、蘭丸の頭が乗っていて重かった。
 雨はやんでいた。もう雲もなく晴れ渡った藍の空を、梨子地蒔のような星々が、城の上空を越え淡海の水面へ落ちてゆく。気まぐれに降ったのだろうか。月がだいぶ西へ渡っている。
 寝ちゃったのか……みんな心配していなければいいけど。明日も早いし帰らなきゃ。
 慌てて頭を起こした衝撃で蘭丸も目を覚ます。
「あのまま寝ちゃったみたい。そろそろ帰らなきゃ」
 でもまだ一緒にいたい。貴重な時間を寝て過ごしてしまうなんて。
 心と裏腹な台詞を口にする鞠香から身体を離すと、蘭丸は軽く口づけた。不意打ちに目を丸くする鞠香に、いたずらいっぱいの笑みを返してくる。
「明日も来る」
 短く言い置くと、立ち上がって尻を掃うので、仕方なく鞠香も従う。
 後は宿屋の側まで送ってもらって、極力音を立てないようそーっと寝床に潜り込んだ。疲労のためか誰一人起きることなく、また暗い朝がくるまで鞠香もすぐ真っ暗闇に吸い込まれていった。甘い想いに浸るだけの余力もなかった。

 

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