そして朝が巡りくる。 城内の台所は今日も大忙しだった。一日三食、時におやつを食べたりもするので、本当にずっと料理しているようなものだった。 あちこちで食器が鳴り、忙しい足音に混じって様々な匂いが立ち込めている。台所棟の外では、馬が歩いてゆく音や荷車を引いている音などもして、現代からきた鞠香達にとっては、風景だけではなく音も聞きなれないものが多かった。 「ほらほら新入り、そこの野菜をとって」 偉そうに指示を受けるが、みんな自分の持ち場で精いっぱいなのである。新入りなんかに懇切丁寧に指導する余裕もない。 そうは言うものの、見知らぬ調理器具をどう使うのが正しいか悩んだり、調理法さえ違う。なかなか思うように動けない歯がゆさもあり、なんとか慣れようと必死に先輩の動きを追っていた。 香代と長く顔を付き合わせることもない。挨拶を交わし、せいぜい少し雑談をするぐらいで、後はたくさんの女中にまぎれてお互い忙しくしているので、存在を感じることもないのだ。あえて親睦を深めるなら、食事と食事の間のほんの一休みの時間か、それとも食事休憩にうまく順番が合うか、仕事からあがった後だった。けれど香代は、すぐ館の方へ戻ってしまう。 香代と出逢ったのも夜更けだった。この時代の人はいつ寛いでいるのかと不思議に思う生活ぶりだ。 それはさておき、ここは天下の信長の城なので、なにより新しい流行のメニューだった。いわゆる南蛮からもたらされた物である。テスト対策だけでは知り得なかった安土の食文化を、鞠香は心底おもしろく思う。 「今夜はてんぷらだって。これも南蛮から渡来したものなんだねぇ」 「ちっとも和食じゃないじゃない」 遅い昼食を摂る鞠香がさも感心したように言うのを、同じように煮物を突っつく玲子が受ける。確かにそうだ、和食ではなく南蛮食と言うのが正しい。さらに感心した鞠香は、暗く冷たい板敷きに足を投げ出した。 てんぷらかぁ。私もちょっと食べたいなぁ。 決して煮物が嫌いなわけではないが、いい加減しつこい揚げ物や肉が食べたい。ファーストフードのなんと懐かしいことか。飛鳥からこっち、ヘルシー過ぎて力がわかないったらありはしない。 「バターたっぷりのオムライス、カニクリームコロッケ、クリームシチュー。あぁあぁ食べたいなぁ」 鞠香が指折り並べ立てる、彼女いわく元気が出るメニューに玲子もいろいろ付け足しては、よだれ混じりのため息をつく。 「にんにくいっぱいのカレーでしょう、とんかつにキムチなんか、ここで絶対食べられないもんね」 机に片肘をつき、見るからに怠惰な格好にうろんな眼で数え上げるがきりがない。何を食べても味気なかったはずの玲子も、このハードな勤労生活には食べずにいられない。むくむくと食欲が戻ってきており、これも聖美の采配なのかと思うと、本当に頭が下がる思いだった。 交代でとる昼休みが終わると、下げられた膳を清めたり、重ねて獲れたての魚や野菜やらが運搬されてくるのを手伝って、おやつ組は軽くなにか賄って、大抵は夕飯の支度に入る。領地の民からの差し入れもあったり、食材はなかなか豊富だ。 運搬は主に、水上からである。ふもとまで湖水が入り込み、そこから台所までを、曲がりくねった坂道が繋いでいる。もちろん本丸の方にまで続いていて、食料品以外の物資もここを通ってもたらされるのである。 今日は荷が多い日だった。何が運ばれているのか。忙しく立ち動きながらも、鞠香は興味津々でその様子に注意を払っていた。 この上で、蘭丸様も一生懸命お仕事しているんだなぁ。大いなる事を成すためだと言って、疲れも見せずに頑張っているんだなぁ。 同年代の蘭丸が、はっきりと自分の意思を持って働いていることは、鞠香にカルチャーショックをもたらした。下っ端ではあるけれど仮にも城仕えの仕事を、ちゃんと覚えようと、昨夜の彼を見て心に決めたのだった。たくさんのことを見て聞いて考えて、その方がうすらぼんやり過ごすより断然良い。 自分の仕事について語る彼の目は、いつも真っ直ぐで誇りに満ちている。素敵だと思う。 輸入品だと聞いてびっくりした南瓜を運びながら、日の光を浴びてそびえる金殿玉楼に目を細めた。 もし宿代に余剰金が出てお小遣いになったら、このお城の中を見学してみたいなぁ。蘭丸様の大事にしているものを見てみたいなぁ。 信長は入城料つきで、庶民にも自慢の城を見学させているという。台所女の間で、誰がもう行っただの行ってないだの話題になっているのだ。 あ、でも城内に入ろうとすると動けなくなったか。でも蘭丸様が働くお城だもん、きっと大丈夫よね。今だって、この間よりずいぶん平気になっている。いつもの変な夢のように、一時的なものだったのかも。 休む暇なく、発育のいい南瓜をいくつも抱え、急いで戸口をくぐる。 その夜も蘭丸は遅かった。立っているのはしんどいから、また月見草の海で中腰になって、彼がやって来るだろう方向を見ていた。 昨日の失敗を踏まえ、皆に余計な心配をさせないよう、人と会って遅くなるかもしれない旨を話してきた。渦中の蘭丸に会うとは口が裂けても言えないので、不審に思われているかもしれないが仕方ない。 そろそろ聞きなれてきた蹄の音がして、待ち人が檸檬色の上に姿を現した。鞠香が立ち上がり、その存在を報せると、彼もこちらへ馬首を向ける。 地が檸檬色の海なら、空は星の砂浜である。今夜もまだ若い月がやわく星空に間借りし、薄雲が時折その姿を鈍くしている。 「遅くなってすまぬ」 鞠香が頭を振るのを見ながら、懐から包みを取り出す。 「ほら。珍しがるだろうと少し分けてもろうた」 差し出された和紙を開くと、色とりどりのコンペイトウが姿を現した。アルテナの城にもあったし、現代では珍品でもなんでもないけれど、こうして彼から手渡されるとひどく感激する。 「ありがとう!」 「殿はこれがお好きでな、たまにお土産の品として献上されるのだ。鞠香は食べたことがないであろう」 どこか自慢気に語る蘭丸に、鞠香は口元を綻ばせると、星型の砂糖菓子を含んだ。舌の上で懐かしい甘味がじわっと広がるのが、疲れた身体にたまらない。 「おいしい! すごくしあわせ」 蘭丸が笑みの眉を開いて頷く。 昨夜の低木の元へたどり着くと、腰掛けながら自分の口にもコンペイトウを持っていく。 甘い幸せで口の中がいっぱいになる。 「ね、これ少し残して持って帰ってもいい?」 「ん? かまわぬが?」 なぜ? と彼の目が続きを語る。 「大事な友達にもね、あげたいの。いいかな」 合点のいった顔で喜ぶ蘭丸が、それならもう少し貰い受けてくると言ってくれる。 どんなにたくさん献上されたのだろうかと思う鞠香だったが、その嬉しい言葉には素直に礼を述べる。 疲労してくると糖分が欲しくなる。この時代といったら砂糖はまだ貴重で、サツマイモさえ手に入らないときたもので、昼間はあの続きで、チョコレート渇望などと喚いていたところだったのだ。果糖が頼みの綱だったが、それも現代のようにハウス栽培があるわけでないから、日本古来の旬の、ごく限られた品か干し果だけだった。この干し果がまた甘くて旨いのだが、砂糖の甘さに慣れた現代っ子には、何日もそればかりで物足りなくなっていたところだった。 甘くとろけてゆくコンペイトウ。現代ほど、どぎつい色はしていない。似たり寄ったりで白っぽく地味な水色や黄色を、一口一口大切に口に入れる。蘭丸と一緒に。蛍灯のなか星空を見上げながら。 「鞠香は、昼間なにをしておるのだ」 「お城の台所で働いてる」 香代のことを連想しながら言ってみるが、蘭丸も同じように彼女を思い出したらしい。 「なるほど、それで聞いたのか」 これには曖昧に笑ってやり過ごした。蘭丸も独り言だったようで、これ以上とやかく言うつもりはないらしい。 「明日は降るやも知れぬな」 薄い雲が忙しげに上空を吹き流れてゆくのを見上げながら話題を変える。 鞠香は食べるのをやめ、半分を元通りくるみなおして懐に滑り込ませた。 「私ね、いつか城内見学に行きたいの」 「その時は、私が案内役を買って出ようか」 第一線で働いている蘭丸が、そのような時間をとることは難しい。期待せずに、適度に楽しみにしていることにして笑みをしておく。 「天守からの眺めは最高だ。遠くまで見渡せてそれは清々しいのだ。特に夕暮れは、淡海が光ってとても美しい。見せてやれないのが残念でならぬ」 蘭丸がいろいろ話してくれる。自分のことを話してくれる。 ずっとこうしていたい、この人の隣で。でもこの人は帰ってしまう、それが順当なことだから。 見上げる鞠香の視線に、蘭丸の視線が絡む。それまで緩やかな笑みをたたえていた彼が、そのまま月を見上げ、どこか決別するようなきっぱりした口調で告げる。 「もう夜も遅い。そろそろ帰ろう」 どうしよう、昨日よりもっと寂しい。このまま一緒にいて欲しいと、その袖を握って引き止めてしまいたい。 やけにはっきりと言われ疑問を覚えたものの、顔には出さないでいたはずなのに、不意に抱きすくめられていた。 「明晩、必ず来る」 愛しそうに髪を撫でて口づけるように囁く蘭丸の腕の中で、その手を、言葉を信じて、硬く頷く。 寂しいのに、切ないのに、満たされる甘美な想いで目頭が熱くなる。もちろん涙は落とさないが、その分深く顔を埋めて、ほんのり伝わってくる温もりに身をひたした。 もし明日また移動していても悔いのないよう、心ゆくまでその温もりを堪能する。いつの間にか、蘭丸に会えない日など考えられなくなっていた。 その彼が身を離したかと思うと、また軽い口づけをくれる。けれども昨日の不意打ちよりは長い、ちゃんと唇の厚みを感じるような口づけ。濡れた唇の温かみを感じる口づけだった。 雨の前のくぐもった花の香りが漂っている。つい閉じてしまった目に檸檬色が波うち、恋風が舞った。一瞬のことである。 蘭丸は唇を離すと、満足げにいたずらっぽくほほえんだ。どことなく哀愁をにおわせながら、それとは読み取られない表情で鞠香の頬を撫でる。 「近く戦に出る」 鞠香がまた身を硬くする。 「……京都?」 本能寺ではないだろうか。いくら年号しか覚えていない日本史でも、そんな中にさえ出てくる本能寺の変ぐらい知っている。その直前にやって来たことは、皆から聞いている。もしそうなら、信長側である彼は……。 「いや途中京には寄るだろうが、目的は備中だ。深くは言えないが、ほぼ片がついたと聞いておるから心配には及ばぬ」 備中がどこか、鞠香にはわからなかったが、予備知識として教えられたところでは、秀吉の戦を手伝うために中国地方へ行く途中で本能寺の変は起こったはずだ。本能寺が京都だということも聞かされている。ということは、まさしく途中京に寄ったということではなかろうか。 ゾクッと悪寒が走る。 この人がいなくなる。いやだ、絶対いやだ。でも私なら、止められるかもしれない。 鞠香が顔をあげると、切れ長の目が優しくほほえんでいた。 歴史を変えたら、還るべき世界が変わってしまうかも知れない。でも京都など行かせるわけにいかない。絶対に。 着物を握っている手にも自ずと力が入る。 会って間もない彼の未来が、もう途切れているなんて信じられない。いなくなるなんて耐えられない。 「そんなに握ると、皺だらけになってしまうではないか」 優しく嗜める声さえも、死を予知させる材料にしか聞こえなくなっていた。 「さぁ、ゆるりと送っていこう」 蘭丸が、お行儀よくご主人を待っていた愛馬に手をかける。差し出された手をとった鞠香は、暫くの後、またもや月明かりだけを頼りに寝床に潜り込んだのだった。 夢の国は果てしない。でも自分で進んで行かなければ。 どうしても彼の命を繋ぎとめたい。でないと、自分が死んでしまいそう。 |
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