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DREAM1 〜月見野原の雫

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   Chapter6:本能寺の変 


 今夜は蘭丸が泊まりで帰ってこないらしい。
 城での仕事を早めに終えると、いつも彼の屋敷で小間使いをするのが常だった。それは仕事ではなく、ここまで育ててくれた森一家へのご恩返しであり、お手伝い程度のことだった。彼が帰ってこない日は、母親である妙向尼とゆっくりお茶を飲みながら女の話で盛り上がる。香代がほっと肩の力を抜ける時間だ。
 香代は、蘭丸の相手が鞠香だと知って思い沈んでいた。側室ならいざ知らず、自分が本妻になるものだと今までつきあってきたし、蘭丸とてそのつもりだったのは間違いない。全国平定も見えてきて、蘭丸の仕事的にようやくその頃合いが訪れようとしていたはずだった。それを今になって。

「蘭丸には誰か気になる方がおられるのですか」
 蘭丸が息を吐くように白状する。
「……お前とやりあった後、いささか揺れておるな」
 吐き捨てるように言うわりには、香代への謝罪があまりに心籠っている。
「逢ったばかりの娘だ、心配には及ばぬ」
「落城の際に申された『私にはそなたしかおらぬ』という言葉は何処へ参ったのですか」
「承知しておるのだが。あれに、鞠香に心惹かれていく自分を止められないのだ」
 それ以上、もうなにも言えなかった。
 香代は深いため息をついて、薄暗い屋敷の天井を上目使いに見上げた。
 耳を澄まさなければ聞こえないほどのか細い雨音が緑を叩き、木の香りを運んでくる。
 よりによって鞠香だなんてね。まだ相手を怨むことができれば一層のこと楽だというのに。だってあの夜、あんなに一生懸命に話を聞いてくれて助言もしてくれて。一緒にいるとなにかを思い出しそうな懐かしい気がして。だから蘭丸が、彼女になにかを感じるのも分からないわけではないわ。
 そうして香代は、想い出に浸って物思いにふけっていたが、立ち上がると屋敷を後にしたのだった。
「とにかく選ぶのは蘭丸ですものね」

 香代の行き先は皆の宿屋だった。案内されて部屋へ入っていくと、みんなが雪崩のようにどうっと押し寄せてきて、香代が話し始めるのを今か今かと息を呑んで待った。その様子に救われた気もする。
 香代が今までの経過と心に決めてきた素直な気持ちを告白すると、怒涛のような反論を押しのけ鞠香が崩れ落ちた。
「どうしよう、どうしよう」
 真っ青な顔で世も末のような悲壮な声をあげている。なにがなんだか皆目分からないみんなは、もう固唾をのんで二人を交互に見つめながらとにかく次の言葉を待った。
 心臓がえぐりとられたような痛みに心が千切れそうだ。
「大丈夫。私は大丈夫ですから、鞠香」
 自然に膝が折れ、香代にひざまずく。
「ごめんなさい、そんなつもりなかったの。こんな事になるなんて。ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 本当になにかしないと気が済まない、素直になれない。そんな気持ちでいっぱいだった。一生分の罪悪感がいっぺんに脳天を直撃したような衝撃だった。
 香代は鞠香の冷たくなった手をとった。すっかり血の気が失せている。
「鞠香、そりゃ私も辛くないって言ったら嘘です。けれどもここで二人で悩んだって仕方がありませぬ、選者は蘭丸です。それに私には皆様がいて下さります。独りではありませぬ。だから、あまり悩まれますな」
 とうとう大粒の涙をぽたぽた畳の上にこぼしながら、鞠香は吹っ飛んでいきそうなぐらい頭を振り続けている。まばたきも忘れた両眼からはただ涙がとめどなく溢れるばかりである。
「どぉいうことォォォ!?」
 香代が退室し真っ先に、目を極限まで吊り上げた蘭子が声を荒げた。歩美になだめられ渋々と口を閉じたものの、早く答えてよという視線だけは鋭く光ったままだ。
 まさか蘭丸が相手だとは考えも及ばなかった聖美も、声を押し殺して泣きじゃくる鞠香を抱いてやることも慰めてやることも出来ず立ちすくんでいた。
 部屋の隅で泣き崩れる鞠香は、ひきつけを起こしそうなほど激しく咽び泣いている。握りしめた拳が白い。
 彼が命の際だというのに、香代さんを苦しめるなんて最低!!! 私は、どうして止められないの!!!
 いつもなら味方でいてくれる聖美さえ寄って来てくれない。最低なことをしたのだから当然だ。それなら逆に、腹をくくることが出来るというものだ。また独りになってしまったのだから恐いものはない。人が死んでいくとわかっていながら、やすやすと放っておくことができるか。それももっと近づきたいと願う人を。
 突として、鞠香が本能寺の変から蘭丸を助けたいなどと言い出す。もう反論の大渦が起こったのは言うまでもない。
「とんでもない! 歴史がひっくり返る!」
 案の定、声を揃えて叫ぶ。
 私が願ったとおり、今朝もここにいた。このパターン、似ているよ。きっとイカダの船長は私なんだ。それなら一層のこと大騒動を起こしてやるになっても。ちゃんと使命の内容を言わなかった伊邪那美様が悪いんだから。身勝手なのはわかっているけど、だけど耐えられないの。どうしても。
「大きく未来が変わらないよう考える。みんなが帰れるように考えるから。もう少ししたら、ちゃんと覚悟を決めるね。私一人でも大丈夫なように」
「ちょっとぉ、その言い草はひどいんじゃない」
 聖美が声をあげるのに続いて一同は頷くが、中には納得しない者もいるようで、声を高じて反論する。
「そんなのすっごく身勝手だよ、単なるわがまま! 思い込み! 事情をちゃんと説明して!」
 蘭子である。アルテナもそれに続く。
「蘭子の言う通りだと思うよ。それに俺達の世界そのものに影響を与えることになるんだ、もう少し熟考した方がよくないか」
 もちろん蘭子やアルテナが正論であることは百も承知だ。鞠香もとりあえず落ち着きを取り戻し、事の経緯を話すことにした。まずはそれからである。
「まぁ、全部話して」
 だっと駆け寄ってきた聖美に抱きしめられ、また瞼が熱くなる。この腕に縋りついて赦しを請うてしまえれば、どんなに楽になることか、どんなに安心することか。いっそのこと、そう出来ればいいのにと思う。でもたった数日前の自分に戻れないのだ。

 ──話を聞いたみんなの顔が険しい。どちらかというと否定的っぽい。
「でもね、そういうのってしようがないと思うよ」
 口火を切ったのは玲子である。
「信長まで助けてしまったら大きく変わるかもしれないけれど、蘭丸さん一人なら仇討ちするとは限らないよ。もしかしたらひっそり余生を送るかもしれないし、確率的には半々じゃないかな。私は、まぁの気持ちが痛いほどわかってしまうんだよね。だから頑張りな」
「玲子……そんな言葉もったいないっ」
 鞠香が情けない声でまた目を潤ませる。短い時間で急速に泣いて、瞼なんかお岩さんのように腫れ上がって惨め極まりない顔が再び涙まみれの鼻水まみれである。
「まぁも理屈はわかってると思う。だけどどうしようもないんだよ、そういうのって」
 玲子が付け足すと、一同の顔が連鎖して夕立後のように晴れわたっていった。
「よし、理由はわかった。未来は自分達で創るもんだよ、な、蘭子」
 ずっと渋い顔をしていたアルテナが突然蘭子に話をふる。ふられた蘭子も、まだ腹立たしそうではあったがそれでも頷いてくれる。玲子が皆に虹を架ける。
 全員に架かったところで、そっとドーンが席をはずし、それを見届けたチェリィが攻撃的な視線を鞠香に突きつけていた。

 その日の宵の口、やっと安定を取り戻した鞠香は川辺で頬杖をついて座っていた。
 雨は小降りになり、さらにか細く降っている。蜘蛛の糸のように白く垂れて、濡れているのがわからないほどである。
 藍紫色の空気のなかで入り乱れながら舞っている蛍を、鞠香は半ば無意識で眺めていた。
 もうすぐ蘭丸に会える時間で、本来なら落ち着かないはずなのだが、今はとうていそんな気持ちになれやしなかった。
 みっともない所を見せまくって迷惑をかけまくって、それでも蘭丸を助けたいことには変わらない。香代の事だって、すっぱり割り切れるものでもない。この矛盾した感情に決着をつけきれずにまた肩を震わせうつむく。こんな自分は嫌いだった。
 玲子の恋が凄いと思った、あんな恋がしたいと思った。ドラマティックで強い想い、刹那の恋にて永遠の想いを二人で抱いて。なのに自分は意に添わぬ恋をして、それでも嬉しさや幸せを感じて平気で人を傷つけている。人の恋路に踏み入って傷つけ、自分もひどく辛い。そんな恋は他人事だと思ってきたのに。
 人を本気で好きになるのがこんな不安定で、他の何より確かな気持ち一つだということを痛感した鞠香だった。
 その首筋に初夏の夜風が心地よく息を吹きかける。
 どうにか顔をあげた鞠香の上には、もう宝物のような星々がきらめき始めていた。
 どうやら私には玲子みたいな才能はないね。いっつもそれしか見えなくなっちゃうんだ、周りとの調和を考え整えながら自分で調整出来るなんて神業だよ。猪突猛進なんだ、私って。なんか痛感。
 イカダが、戸惑いつつも歴史を逆流しようとしてる。硝子の迷宮のなかで。もうどうしようもないね。後は前進あるのみだよね。行き着く先はまほろばか隠り世か。ううん、きっとまほろばが待っている。きっと……。
「わぁ……綺麗っ」
 声がして我に返ると、チェリィが歓声とは裏腹に厳しい視線をこちらへ突き刺していた。一瞬ほっと気を許して名を呼んだ鞠香は、その視線にもう一度我に返る。
「ちょっと言っときたいんだけどね、すんごい勝手なことしてるんだからね! ドーンや他の人の気持ちも考えなよ!」
 その言葉にハッとなる。皆と一緒に行きたいからついて行くと言っていたドーン。ひたと自分を見つめるドーンの顔が脳裏によぎる。
 お母さんのようだとは言われたけど……まさか。
「チェリィ、ごめん。気持ちは少しも変わらない、我慢できないの。こうやって人を傷つけてもまだ助けたい、生きてて欲しいの」
「それが勝手だって言うのーォォ!」
 チェリィが体中を突っ張って思いっきり叫ぶのを聞いて、鞠香は弱りきってしまった。もともと勝手は承知の上だ。勝手といわれて反論する言葉はない。
「チェリィはドーンを好きなんだね」
 チェリィは頬を染めたがすぐに反論する。
「一言言っときなよ!」
「うん、ありがとうって言っておく」
 言いながら鞠香は手招きした。今度はチェリィも素直に従い、しっとりと濡れそぼっている草の上に並んで腰をおろす。
「玲子みたいに時を越えて惹かれあうような、お互いだけを強く想い合う恋に憧れていたの」
 頬杖のまま遠くを見ていた目が、チェリィに向けられる。
「手と手が触れ合った時に風が吹いたの。安心できる場所をこんな所に見つけてしまったの、もう止まらないの」
 わずか数日前とはなにか違う、大人びた表情の鞠香がそこにあった。
「ねぇ、チェリィはドーンになんか感じた?」
「あたいは……」
 お姉さんが年下に話しかける口調ではない。大真面目で聞く鞠香にうろたえながら、チェリィはドーンとの出逢いから今までを模索する。
「えーと、あたいは鞠香みたいに強いものじゃなくて。もっと優しい緩やかな、芽吹き始めたばかりで大事に育てていくような気持ち、かなぁ?」
 イカダが流れてゆく。しっかり自分の手で舵を握り、遥か彼方の輝きを見据える。硝子の迷宮を歴史の流れに逆らいながら進む姿を、月が浮き彫りにしていた。
「浸ってるなぁ」
 慌てて後ろを振り返ってみると、いつのまにか出ていったきりのドーンが優しくほほえんで立っていた。
 驚いた鞠香が慌てて口をモゴモゴさせているのを見てドーンは笑いだし、そして自分も悪かったと謝ってくれる。再度協力すると言って爽やかに笑うドーン。最初はびっくりして放心していた鞠香がまた口をモゴモゴさせる。何を言っていいのかわからない、気持ちだけが先走るのだ。
 それまで話の経過をおとなしく聞いていたチェリィがとうとう声をあげた。
「どうしてぇ? 鞠香が反省してるのはわかるけど、人が良すぎるよぉ!」
「人を見殺しにするような僕だったら、チェリィは好きになってくれた?」
 みるみる内に耳たぶまで真っ赤になる。
「いつから聞いてたの!!」
「鞠香がぼーっとしてる時からずっと。とは言っても僕の方が先だったんだよ。そこの木の上から星を見ていたら鞠香が来てチェリィが来て、下りるに下りれなくなってしまったんだ」
 ドーンが両手を空へと差し伸べる。いつの間にか雨がやみ、一片の雲影もない空が星屑を降らせていた。
「ほら、今夜も最高の星月夜だよ」
 ドーンが小さな光る粒でいっぱいの空を指さして目を閉じ、続いて後の二人も同じように目を閉じた。天の河を流れる星の音が微かに聞こえる。
 安土の天空は、硝子玉がぶつかるような妙なる音だ。ちらちら、きらきら流れる天の河の水のようにみんなの勇気は満水になる。
 三人はしばらく星座の話やらなにやらで盛り上がっていたが、やがて宿屋への帰途についた。
 帰り道を歩きながら鞠香は、短い間にきつく張りつめていた緊張感が次第に緩んで、畏れ多くも今が一番幸せだなど考えていた。
 こんな状態を幸せだなんて不謹慎よね、わかってはいるんだけど、でも幸せだよ。こんな気持ち知らなかった、周りの人を傷つけてしまうほどの強烈な想い。それなのに私を見捨てないでいてくれる人がいて。宇宙一の幸せ者で甘えん坊だ。
 どうしても思わずにはいられないのである。香代がどんなに苦しい思いをしているかを承知の上で、それでもやはり嬉しいのだ。
 鞠香が空を見上げ、一人で浸っている側でチェリィがそっとドーンの袖を引っ張る。
「あのね、ドーンが人を見殺しにするような人だったら……好きじゃない」
 炭酸水がぷちぷちとドーンのなかで跳ね、甘酸っぱい味が身体全体を満たして、思わずチェリィの頭をくしゃっと撫でた。
「この、おませさん」
 三人の前を幾千もの蛍が灯をともしている。

 

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