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DREAM1 〜月見野原の雫

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 その日の夜遅く、鞠香は忍び足で宿屋を出ると月見野原へ走った。
 月明かりを浴びて黒っぽく浮かび上がる影が、大きく手を広げ待っている。
 鞠香は駆けた。夢中でそれをめがけて。そして腕のなかへ一気に、全身全霊で飛び込んだ。
「蘭丸様っ!」
 その腕は高く空まで高く鞠香を抱き上げて、しっかり抱きとめてくれる。同時に、言い知れぬ大きな安心感が広がってゆく。
 温かい笑みを浮かべた蘭丸の瞳が、月の光に照らされた自分をとらえている。
「出立準備で忙しくなる前に一度と、殿に許可を貰ってきた」
 急に口調を変える。
「今宵一夜、共に過ごそう」
 厳しさを滲ませる蘭丸に、鞠香は妖しく張り詰めた空気をまといつかせて頷いた。
 野原を後にする二人に、まるでなにかを伝えようと語りかけてくるかのように、風に吹かれた月見草がさらさら揺れている。雨上がりの上空では、星がゆっくり弧を描いていた。
「眺めの良い部屋だな」
 旅行のくせが出て、まず窓の外を検めていた鞠香の背後から、蘭丸も同じ景色を覗く。
 もちろん皆で寝泊りしている場所とは別だ。大きな城下町なので宿屋だって何軒もあるのだ。
 不思議なものだな。突然の旅に放り出されて、いろんな人と出逢ってきた。イカダはゆっくり確実に流れている、でもここから動かない。
 なぜ? 今度は本当に私が舵をとる番? もし蘭丸様がなにか関わりがあるのだとしたら、もしかしたら──。
 柔らかい檸檬色の野原、銀色の光を浴びてそびえ立っている幻の城を眺めながら、もしかしたら蘭丸は伊邪那岐神の転生かもしれないと初めて想到したのだった。
 私が伊邪那美様の転生なんて信じられないけど、もしかしたら──。
 やっとここまで考えた鞠香の唇を、不意に奪う。昨日までの、簡単な口づけではなく、思いの丈がこもった心そのものだった。
 鞠香は唇を噛みしめ抗った。どうしても香代が消えないのだ。
 嬉しいのに。こんなキスをもらえて嬉しいのに。あるがままに受け止められない。
 閉じた瞳から漏れ出でてくるものを拭ってやりながら、蘭丸が穏やかなほほえみを口元に浮かべ、諭すように言う。
「今宵はずっと一緒だ」
 どうしよう香代さん。どうしようもなく嬉しい、幸せに感じてしまうの。このままだと流される、でももうコントロールできない。
「蘭丸様……!」
 こみあげる涙のままに名を呼ぶ鞠香の手をとって、蘭丸は力任せに抱き寄せた。
「蘭丸でよい」
 むさぼるように抱きあう二人の唇が自然と近づいてゆく、が鞠香は顔を背けた。
 蘭丸が悲しげな笑みを浮かべる。心意は痛いほどわかっているのだ、けれどもこのまま長く戦へ出てしまうことだけは堪えられなかった。原因が原因だけに、本当はこのまま無理強いしてでもと思う男ならではの非道な本能をどうにか抑える。
 こわれそうに泣きじゃくる鞠香の涙を拭いてやりながら、落ち着きを取り戻すまでゆったりと待ち、まるで手のなかの珠を愛おしむように寝床に横たえ頬を寄せた。
 鞠香も息がかかるほど彼を間近に感じながら、『声』が再び前よりも大きく響いてくるのを全身で聞いていたが、早鐘をうつ心臓に掻き消されたちまち本質を失っていった。
「鞠香……」
 蘭丸がそうっと唇を重ねてくる。命の火が燃える唇を、鞠香は今度こそしっかり受けとめた。その真の心が唇を伝って身体中を満たす。
 誰が初めてのキスの相手が、まさか過去の人物だなんて考えたであろう。
「そなた、震えておるではないか」
 確かに、蘭丸の腕のなかでかすかに全身を震わせている。
 そんなこと言ったって現代じゃごく平均的女子高生なんだもん。恐くて当たり前なんだもん。
「ううん、震えてなんかいないよ」
 言っている端からかすかな震動が伝わってくる。冷静沈着と謳われたさすがの彼も、思わず目を細めた。
 じゃじゃ馬め。一緒にいて少しも飽きない、おもしろい娘だ。
 蘭丸の節くれだった手が、鞠香のほんのり薔薇色に染まっている肌を覆う。
「鞠香……」
 蘭丸の淡く溶けそうな口づけが、身体の中いっぱいに激しい決心となって響く。やがてそれはやわらかな音へと滲んで、ずっと深い場所に眠っていた混沌とした世界を呼び起こしていった。
「…蘭丸……」
 甘ったるいささやきが、切ない吐息と共に漏れる。
 蘭丸も荒い息で何度も名を呼び返し、長い器用そうな指が、色づいて急わしなく上下する膨らみを行ったり来たりする。
「やっ……」
 突然、羞恥を含んだかん高い声が蘭丸の耳を刺すが、それでも構わず唇を重ねた。
「今夜はずっと一緒と申したろう、もう逃がしはせぬ」
 はちきれそうに切羽詰った声が、暗闇に光って落ちる水滴のように、鞠香の心に浸透した。無意識に涙が流れる。
 蘭丸が生まれたての子猫のように舌で拭うと、湿った息がお互いの肌に触れた。鞠香は生まれて初めて自ら唇を求め、閉じた目で、彼を探して手をさまよわせた。蘭丸が、その手をしっかり握る。
 ここにいる……。
 再び濡れた唇が、鞠香のすべてに、細部に至るまで、すべてに口づけの雨を降らす。時間をかけて、ゆっくりゆっくり時を封じ込めるように──。
 蘭丸のくぐもった声が、安らかな時を産み落とす。
「必ず帰ってくる」
 切れ長の優しいいたずらいっぱいの瞳が、優しく優しく鞠香を映している。
「待っていてくれるか」
「うん……」
 苦しそうに息をする鞠香が、濡れた鳶色の瞳を細め、強い光でほほえみ返す。
 切なく穏やかで、なにより緩やかな時間。安土の空間が二人を包み、最期の夜が更けてゆく。

 ふと気がつくと、もう空が白み始めていた。鞠香はまだ眠っている傷だらけの胸に顔をうずめた。
 毎日走りまわって疲れているんだろうな。
 頬に蘭丸の肌の温もりや、心臓の営みが聞こえてくる。
 ここは過去、でも蘭丸も私も香代さんだって生きている。みんな生きている。こんなに『生』を意識するのは初めてだ、そして『死』を意識するのも初めてだね。
 不意に、例の『声』が鞠香の頭中を走り抜けた。
 なんだか昨日もずっと、声が聞こえていたような気がする。なに? 伊邪那美様? そうだとしたら……あぁっ、 わかった! もしかして、まさかとは思うけど、香代さんも伊邪那美様の生まれ変わりだったりする?!
 鞠香は心地よい蘭丸の寝息を避けるように俯いた。
 それじゃぁ私は……。香代さん……香代さん!! 私はやっぱり自分に負けていたんだ!! いっぱい踏みにじって!! でも私は蘭丸に出逢ってしまった。たとえ他の人に出逢ったとしても蘭丸自身じゃないその人を好きになれる? でも、それは自分の都合だ。香代さんを苦しめた分、自分も苦しまなきゃいけないよね。それこそが償いだよね。きっと頑張れるよね、頑張らなくちゃね。
 鞠香は伊邪那美神を念じた。
 朝一番の輝きよりも白い光が急速に現れたかと思うと、姿も見えぬうちから声が語り始めた。
「やっと思念が通じましたね。これがあなた自身の使命なのです、あなたの使命は私の望み。今の鞠香には酷かも知れませんが」
 目を細めるなかで、ぼんやり現れてきた伊邪那美神が顔を伏せ後を続ける。
「蘭丸と香代を幸せにしてやって欲しかったのです。私の負った業をここで断ち切って欲しかったのです……こんなことになるとは思いもしませんでしたが、あなたの為にもここで──」
 再び伊邪那美神は聞きたいことを山程残して、姿全部が見えるようになったと思ったらもうあくせくと消えてしまった。
 しかし鞠香の思考が正しいことだけは立証していったわけで、自ら身を切るような酷い使命を両肩に乗せることになったのである。
 使命と言っても、鞠香が考えているものは伊邪那美神の言うそれとは多少違っていた。罪滅ぼしをしてみんなと無事に還ることなのだ。今そう決めた。鞠香だけが戻す事が出来るのだ、全てが自分にかかっているのだ。
 それでも別れたくない。伊邪那美様が業を背負っているのなら、お互い結ばれる事はない。けれどもそれまで一緒にいられる。今この時を共に過ごせる。別れたくはない。でも……。
「神様って、私より勝手かも……」
 鞠香がぼそりと呟く。
 その声に気づいたのか、蘭丸の目が薄く開けられた。まだ気だるそうに、おぼつかない視線を天井に向けている。
 夜明け前の風が、二人が横たわる温もりの場をさまして通る。薄紫に染まった褥。ほんのり二人だけの夜が漂っている。
 鞠香は思い切って勇気の水をすくいあげた。
「私のこと、ずっと好きでいてくれる?」
 わざと無邪気な声で訊ねてみる。
「おぬしはいったい、起き抜けに何を申すのだ」
 寝ぼけた答えが返ってきたが、それでも構わずに続ける。
「一生、ううん、死んでもだよ」
「わかった、わかった。そうだな」
 あながち嘘でもないがと考えつつ、とりあえずそう言っておくことにした。
 鞠香も満足したようにほほえむ。だがそれとは裏腹に、決心を込めた重い口調で続く次の言葉に、蘭丸は眠りの淵へ引き込まれていきそうな我が耳を疑った。
「よく聞いて下さい。本当は蘭丸は香代さんと一緒にならなきゃいけないんです。実は私達は未来の人間なの、だから住む世界が……っ!?」
 不意に蘭丸の唇が、次の言葉を消した。
 こんなのってひどい! 香代さんなんか、伊邪那美様なんか消えてなくなればいい!!
 鞠香の頭はもう破裂寸前になっている。これ以上何か考えたら、自分の存在さえ消してしまいそうである。
 蘭丸……恐い。ほんとは私、すごく恐いの。あなたに手が届かなくなる、遠くに行ってしまうことが!! 嫌なの!!
「なにを申す、そんなに私が信じられぬか」
「私は使命を受けてかの地に降り立った者っ!」
 鞠香の泣くまいと見開いた目から、とうとう涙が落ちる。
「それ以上言うことは許さぬぞ」
「神様が告げたの! 蘭丸と香代さんは誰にも邪魔できない運命によって結ばれているって!」
 鞠香の悲しいまでも凛とした声が部屋中、いや安土いっぱいに風となって突き抜ける。
 蘭丸が、ぽろぽろと転げ落ちる涙を拭ってやり息をつく。
「承知、一応心に留めておく」
「本能寺に宿泊なさる時は気をつけて。光秀様に──」
「なにゆえ……」
 鞠香は自分の頬を撫でている蘭丸の手をとった。
「それでも運命にかなわぬ場合は、必ず助けに行きます。そして香代さんを大切にしてあげて下さい」
 そう言って自分の髪を結っていたリボンを蘭丸の腕に結びつける。再びきっと会い見えることを祈って。恋結びをする。
 自分でも未練がましいと思うが、なにかで繋がっていたかったのかもしれない。
 ところが突然、蘭丸が宿屋に響きわたる怒鳴り声をあげたのである。
「何を申す! また揺らいでしまうではないか! そうだ、香代が今もくすぶっておる。私は香代を室に迎えるものとして生きて来た、それを捨てられるわけがない。初めて会った日に申した、懐かしいというのは香代だったのだ。そなた達は似ておるのだ」
 蘭丸は胸に顔をうずめながら、声を震わせ荒らげた。
 グサリ。尖った硝子の破片が突き刺さる。
「ひどい……それでは一時のからかいで私と?」
「いや、違う。そなたを離したくない! でも香代を消し去ることはできぬ、香代を側室などに下ろせぬ」
 結局失恋なんだ。こんなの本当に酷いよ惨めだよ。蘭丸、私の時代に一夫多妻はないんだよ。私は、蘭丸のただ一人の人でいたかったな。側室なんて、現代じゃ失恋て言うんだよ。こんなに繋がっている二人に割って入って、そんなつもりはなかったけど、いい気になっていたのだろうか。イヤなヤツになっていたのかな。これは罰かもしれないね。
 自分の腕のなかで声を震わせている蘭丸の背を優しく撫でる。
 確か古事記のなかで、伊邪那美様は伊邪那岐様に失恋するんだっけ。そのために私がここへ来たのに同じことを繰り返しちゃったわけね。でも望み、叶えてあげる。伊邪那美様と香代さんと、そして蘭丸の望み。そしてそして、もう一人、きっと後悔している伊邪那岐様の望み叶えてあげる。でもこれはあくまでも使命のためじゃない、蘭丸と香代さんへの罪滅ぼしだからね伊邪那美様。
「さぁ、そろそろお城へ戻らなくては。もう夜が明けてしまいました」
 空が東雲色に染まって、すべてのものを光で縁取りながらシルエットを模っている。信長が贅をこらして力を見せつけたという金箔の居城も反射を返し、安土の朝は煌びやかに明けてゆく。

 あれから無言で宿屋を出て、一言もかわさないまま野原まで来た。
 野原にはまだ月見草が咲いていた。そろそろ先っぽをつぐんで月の色を潤ませ、朝焼けのなかで呼吸している。みずみずしい朝だった。
 まだ日の浅い恋人達の別れ際は切ない。一夜を明かし、ようやく通じ合えたと思った相手ともう別れ話でこじれている。二人には余計に切なく辛く感じた。
 蘭丸とて、これ以上どう言葉に託せばよいかわからず、ただ気がつけば力のかぎり鞠香を抱きしめていた。
 昨夜はからかいや冗談ではない、そんなことわかっておろうに。さりとて香代を放り出すことができるわけない。どちらも必要なのだ。それではいけないというのか。
 鞠香の言葉には揺るぎないものが含まれている。それを溶かすための言葉がもう出てこないのだ。たった一人の女の子を安心させてやる言葉が。この頑なに強張った心を受け入れてやる言葉が。
「戯れではないぞ」
 うん。たったの一週間だったけど、私の事を真剣に想ってくれたのはわかる。感じるよ。優しくて温かい、一番の安心を、ちゃんと貰ったもの。ありがとう。ちゃんと受け取ったから大丈夫。これだけの間で大好きになってしまったよ。
 月見野原の雫が風になって、二人の髪をしなやかに駆け抜けてゆく。
 いくら時間が流れたのだろうか、永い永い口づけだった。
 蘭丸。このキスは未来永劫、有効だからね。
 くるくると勝気な瞳を未来へと輝かせ、鞠香は蘭丸の眼差しの奥を見つめた。いたずらいっぱいの優しい輝きを宿したその瞳が、すっかり曇っている。
 ありがとう、蘭丸。想いは通じていたよね。そう思ってもいいんだよね。
「私、ずっと忘れないでいるよ。ずっと好きでいる」
「あぁ、私もだ。帰りを待っておれ」
 これが永遠も信じられる恋。今なら玲子の気持ちが分かるような気がする。自分で決めたから大丈夫、泣かないでお別れできるよね。泣いたら卑怯だもの、せめて安土を離れるまでは泣かない。
「またずっと遠くで逢おうね」
 そう言い残して駆けていった後ろ姿を見送り、蘭丸も城へ向かって一歩を踏み出した。
 もう一度リボンを握りしめ、後ろを振り返った頃には姿はなく、わけのわからないままに仕方なくまた城へと向き直る蘭丸の顔を、濃淡をつけた朝焼けが形作っていた。
 ずっと遠くで逢おう、か。本当に神の使いだったのかもしれぬな。
 それから蘭丸が毎晩野原へ足を運んでみても、あの日以降、決して姿を見ることなく日々が過ぎていった。
 そうこうしている内にも戦の準備におおわらわで、いつの間にやらとうとう出陣の日を迎えることとなってしまったのだった。
 光秀とて相変わらず無茶苦茶な扱いを受けてはいたものの、平素と別段変わった様子はなく、中国平定に出ている秀吉に手を貸すため一足先に国を出ていった。細かいところを言えば珍しく愚痴をこぼしていたことぐらいで、そんな大それた事をしでかしそうな雰囲気はなかったように思う。
 ところが、運命はそう甘くはなかった。

 

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