「うぬらの命、わしにくれるか」 光秀は、自分に続く数千の兵に向かって話しかけるように呻いた。 「それでは、とうとう今夜……!」 側にいた忠臣達が馬の歩みを止める。 「うむ。このままではこの国は、魔王に巣食われてしまう」 「光秀様……!!」 頷く腹心達の忍び泣く声が、里から離れ、人の気配がまったくない林に響く。 ここは国のはずれ、京中に入るには間もない峠のなかである。 忠義を尽くして身を粉にして働いている。けれど納得のいかぬ家臣団の破門が続き、このままでは大切な家族も重臣もどうなってしまうのかわからない。信長とは馬が合わないのか、踏んだり蹴ったりの光秀がとうとう決意したのである。 決意したというより、決意を表したと言ったほうがいい。ここにきてやっと我が胸中を見せたのだった。よくよく考えた末のことだ。 家臣達も、主君の堪え忍ぶ姿をずっと見てきている者ばかり。異議を唱える者など誰一人としていない。 光秀は采配を天高く振りあげた。 「速駆け前進、敵は本能寺にあり」 うおおぉぉぉ……!! 少しの間を置いて、異様に興奮した歓声が轟き、光秀は少し寂しげに愛馬の尻を鞭打った。 光秀挙兵──天正十年六月一日深夜のことだった。この後、二日未明に本能寺へと攻め込むことになる。 運命の夜その頃、蘭丸は自室で仕事を広げながらも鞠香はどうしているか、今日のお茶会はおもしろくなかったなど、いろいろ思い巡らせてうつらうつらしていた。なにやら外がざわついているが、どうせ他愛もない揉め事だろうと気に止めることもなく熟睡体制に入ろうとした、まさしくその時である。 バンッ! なにか自分の部屋に当たった音がし、外からどよめく歓声があがった。 「敵襲!!」 慌しい声が廊下を通り過ぎ、 「なんだこれは?!」 仁王のような形相で部屋を飛び出した。 すでに一面火の海だ。さっきの音は火矢だったのである。 「蘭丸っ! 蘭丸はおらぬか!」 向こうから主君の声がする。蘭丸は我武者羅に走った。しかし途中で目にしたのは……光秀自慢の旗印、水色桔梗だった。 光秀殿が?! 「蘭丸なればこれに!」 信長が次から次へと雑魚を射ている横で、美濃の奥方までが薙刀を振るっている。蘭丸もとりあえず手持ちの刀で加勢する。 「敵はいくらだ」 「数千はくだらぬと思いまする」 そう答える間にも、蘭丸の腕に気味悪く重い、確かな手ごたえが返ってくる。べとべとした血飛沫が、あの夜の瞳を一瞬でどす黒い血の色に染めてしまう。 「して、敵は!」 威厳に満ちた野太い声が、辺りを鋭く突き刺した。 さりげなく主を後ろへ追いやるように闘いながら、 「敵は……」 つい口ごもる。最初で最期、不思議な少女と一夜を過ごした時の言葉が駆け抜ける。 ──運命! 「申せ! 蘭丸!」 主がさらに答えを求める。多勢に無勢で絶体絶命だというのに、堂々と小物をけちらしている。しかしあまりの兵数との応戦と、とどまることを知らぬ火の手が吐き出す濃い煙に、信長も蘭丸も息をするのがやっとだ。 「恐れながら申し上げます、旗印は水色桔梗!」 腹の底から絞り出した声が届くや否や、みるみる信長の顔が豹変した。カァッと目を見開きつり上げ、口がへの字に曲がり果てる。 「うぬぅ! 光秀めが……!!」 満身の力を拳に込めて弓を、なんと素手でまっぷたつに手折ってしまう。 さしもの蘭丸も、その気迫に今更ながら目を見張る。 「蘭丸、わしは逝く」 「殿っ!!」 もう蘭丸にも何が何だかわからない。こうも勝手に話が展開すると頭が追いつかず、ちょっと待たんかいと言いたくなる。 「仕方あるまい、光秀に抜かりはないであろう。死後、わしの亡骸を決して渡すでない。そのまま首を刎ねた後どこかへうち捨てろ」 「なりませぬ、殿!」 あまりに強く握っていて、感覚がなくなった手から刀が滑り落ちた。もう助けられないのか助からないのか、なにか方法があるのではないか。 無我夢中で主の足にすがりつく。金をあしらった袴がにわかに熱を帯びて焦げ、唇なんかカラカラに乾いて、髪の焦げるいやな臭いが鼻につくばかりである。 「女子供は逃せ」 「なりませぬ!!」 もう足にすがりつくしか術がない。そこら中から気味の悪い断末魔の雄叫びが聞こえ、炎が死体と血を焼き払って煙の中に異臭を閉じこめ、蘭丸の肺を焦がしていく。 「おぬしの噂はおもしろうござった。痴話喧嘩はならぬぞ」 笑顔でそれだけを言い残すと、火の粉を巻き上げ轟々と夜空を灼き焦がす紅蓮の炎へ入っていった。迷いもなく。 なりませぬ!! 馬鹿みたいに同じセリフしか出てこないし、もうそれでさえ熱煙でただれた喉からは音にならなかった。這いつくばって差しのべる手も声ももう届かない。ひゅうひゅうと鳴る喉から繋がる肺を押さえ、それでも立ち上がろうと満身に力を込める。よく似合うと評された浅黄の着物が黒く変色し、火傷裂傷だらけの肌を露出させていた。 その眼の前で、一本の長槍が障子を刺した。ろうそくに照らされた主の影が躍る。 瞬間湧きあがる感情。迸る風。蘭丸は朦朧とした視界で、足元の死者から槍を奪い、我を忘れて薙いだ。 手応えを感じる間もなく、前がだんだんあかく染まってゆく、ただまっかに。そして呻きとも笑いともとれぬ悲哀に満ちた叫びが、最後に喉の奥で漏れた。 ******* 鞠香達はたった今、到着したばかりだった。共に落ち延びさせるため、香代も一緒だ。 あれから一大決心のもと、自分が流れを握っているらしいと話した。本来は仲良く暮らしていた香代と蘭丸のこと、添い遂げることなく本能寺で死に別れること。 今思えば、安土城に入れなかったのは、封印されているはずの香代の記憶かもしれない。香代は炎上する城を、どんな想いで見たのだろう。どんな余生を送ったのだろう。 だいたいが横恋慕だったので、詳しく転生の説明をするまでもなく、簡単に納得してもらえたのは幸いか。転生話を信じられるものか。だが可能性を感じ納得した部分はある。鞠香も玲子も気持ちが読み取りやすくなった以外に、瞬間移動が出来るようになっていたのだ。もちろん最初から遠くへ跳べたわけではない。目の前への移動から少しづつ距離を伸ばして今に至る。蘭丸と会わなくなってからは、移動の練習に没頭した。 テレポートで気を失った香代を大切に横たえると、本能寺があらかた一望できる小高い丘で、目の前の光景を見据えた。眦をつり上げ、拳を握り締め、震える足を開く。 腹の底に響く聞いたことのない戦いの音、声、炎のにおい、そして熱。あの中へ行く。恋を成就させるために。 優しく笑み、驚き、怒り、悲しみ、大いなることを成すためだと、真っ直ぐ前を向いていたいたずらいっぱいの瞳。頬を撫でるひんやりした指、抱きしめられた温もり、我が名を呼ぶ声。みんなみんな助けに行く。 鞠香と共に玲子も、ファンタジー世界の王子に水陣をつくってもらう。三人一緒に炎の真っ只中へ跳ぶ。 行くぞ! 自分一人だけで、こんな遠くへ移動するのは初めてだったが、今は倒れることさえ許されなかった。 本能寺へ降りた途端、耐えきれぬ爆熱風が鞠香達を襲う。水の陣に守られていながらこれだけの熱を感じるのだ。外はいったいどんな熱さなのか、考えただけでもおぞましい。 考えて意識が遠のいてゆく鞠香に、悲鳴にも似た声が届く。 「気を抜いてはだめだ!」 アルテナだ。もし気を許していれば一瞬にして陣が壊れ、灼熱地獄のなかへ放り出されてしまっただろう。ところが玲子の方がそうなってしまったのである。 「玲子!!」 祈るようなか細い悲鳴がアルテナと重なる。 いち早くアルテナが自分の陣へ引き込んだおかげで、どうにか一命は取り留める。彼女の方も、気を許したのは一瞬のようだ。 玲子がこうなったのも仕方ない。そこここに首のない死体や真っ黒に炭化した、人間とも思えぬものがごろごろ転がっているのである。頑丈なはずの寺の柱が爆発音をあげながら燃え立ち、それでもまだ獲物が足りないというのか、ズゥゥゥンと気色悪く吠えて烈火の中に呑み込んでゆく。 いくら秀逸だと絶賛されていても、現代の映像などでは全然伝わってこない。今まさに死ぬかも知れない恐怖感と、決して失いたくない人が死んでしまう戦慄的に鋭利な痛み。爆音の炎渦とただの物体のように転がる死体、それが燃える形容しがたい異臭、この中に実際立ってみなければとうてい理解はできまい。 地獄だ。 それらの奥にある、どす黒い血のなかへ突っ伏している白衣が信長らしい。槍に貫かれ、木瓜が施された刀が腹に突き刺さっている。臓腑がまだ脈打っているように薄桃で、胸が痙攣し廃物が押し上がってくるのを耐える。 まるで生き物のごとく呻き声をあげ、うねり渦巻く炎のなか、鞠香の目が蘭丸をとらえた。這ってはいるが、動いている。 生きてる!! 「行って!!」 玲子とアルテナが敵の動きを喰い止めながら、かろうじて叫び、鞠香は胸をなでおろす間もなく声の限りに叫んだ。 「蘭丸ー!!」 あの夜と変わらぬ鞠香の声が、爆音を切り裂いて炎をも裂く。心の底から命の限り声を出しているつもりなのに、どうしても震える。 震えた声じゃ届かない! お願いだから止まって! しっかりしなさい! なにも震えは恐怖からだけではない。蘭丸が生きて目の前にいる、久しぶりに会えた、しかし丘には香代が待っている、手と手をとって彼らを逃がしたあと二度と会い見えることはない。月明かりにほほえむ蘭丸と二度とは。今まで押し殺してきた感情が、幾重にも重なりあって、心身ともに歯止めが効かなくなっている。 蘭丸が息を呑む。いるはずのない京の都で、この大火のなかを、光に包まれた鞠香が手を差し伸べている。 「中に入って!!」 水のなかにいても熱い。差し出した腕が自分の体でないように熱い、熱く焼ける。いったい陣の外はどんな焦熱なのだろうか、もう胸が締め付けられる思いである。 蘭丸を一刻も早く忌まわしい炎のなかから助けたいの!! お願い、お願いだから香代さん!! 力を貸してっ!! しっかりしなさい、私!! 頭には、それだけしかない。蘭丸を助けることだけ、である。 「ま、鞠香! そなたは?!」 「いいから早く!!」 鞠香のつんざくような叫びが、痛々しいくらい生々しく玲子とアルテナにも伝わってくる。 本当はずっと会いたかった……!! 本当は別れたくなんかない!! 「しかし殿がっっ!!」 しゃがれた声で懇願する蘭丸の腕を、鞠香はあらん限りの力でひっつかんで陣のなかへ引きずり込む。玲子とアルテナが、いくら敵の動きを封じているといえども限度がある。緊張は体力をも消費するのである。 「信長はもう助からない」 蘭丸の顔が凍る。 「さっ、跳んで!!」 そうして丘に帰ると、香代には適当にごまかしてあるらしく、みんな揃って待っていた。 とにかく今は助かった、帰って来られた。 みんながどっと集まり無事を喜んでいるなかで、蘭丸だけが身体を強張らせていた。 「これは、いったい。鞠香、そなたは……」 まるで狐につままれたような顔である。 「蘭丸、香代さんと静かに生き長らえて。どうか復讐なんて考えないで下さい。光秀は中国から折り返してきた秀吉に討たれるはずです」 テスト対策の年号だけではない、身を持って知った歴史だった。 「なにゆえ、そのような……」 蘭丸が言いかけて視線を追うと、そこには爆音をともない、火柱をあげて京を焼き焦がす炎と、今にも崩れ落ちそうな本能寺が横たわっていた。 歴史が変わろうとしている。歴史の変化地点はいつも戦いだ。他の生き方を知らぬ人間ども、もっと他に道はないのだろうか。歴史は戦いの歴史だなんてしんどいよ。 「殿──」 蘭丸が小さく呟く。本能寺から割合離れたこの丘にいても熱気を感じる炎勢に、みんなは言葉を失って見つめていた。 こんな悲しい想いをこらえて、過去の人は現在へと未来を託し、必死に紡いできたんだ。なんて過去は尊いのだろう。帰って来られて良かった、というより、あのなかにいたことさえ信じられない。 果てしなく広がる夢の国、その行く手に横たわる数々の迷宮。越えていかなきゃね。きっと探し人はここにもいたよ。 不意にあずさが言葉をかけた。 「それじゃ、私達はもう行くよ」 にこやかに、ひらひら手を振っている。どうやら気を利かせているつもりのようだ。 彼女らしい気配りに、雀の涙ほどの余力が漲ってくる。 「うん、私も後から行く」 気力だけでどうにか残っている緊張の糸の切れ端。もう限界で、今にも泣きそうになっている鞠香にまだ勇気が蓄えられる。 ありがとう。 「感謝しろよな」 「香代さんを泣かせてさ、反省しろよ」 「ちょ、ちょっときょんちゃん、蘭子ってば!」 慌てて歩美がとりなすのを、玲子があーあーと苦笑いして視線を送ってくる。 「まっそいうわけだから、お幸せにね」 言い残して、今まで見たことのない笑顔で、玲子が立ち去っていった。 鞠香は、そこらじゅう血がにじむ蘭丸の傷口と、焼けただれて普通に息をするのも苦しいはずの肺と喉へ手を伸ばした。 「リボン、ずっと持っていてね」 鞠香は手のひらに慈しみの愛情を載せる。息が楽になり、どんどん傷が癒されていく。 「どうかお幸せに。大好きだったよ蘭丸様、香代さん。二人共、愛してる」 蘭丸の返り血だらけ、煤だらけの頬にキスをする。 大丈夫だよ、自分で決めたことだから。蘭丸と香代さんを苦しめた罪滅ぼし、受け取ってね。使命のためじゃない、自分で決めたことだから……。 もう限界だ。我慢の緒がキリキリと引き絞られて想いが溢れる。とてもじゃないが、笑ってなんかいられない。辛い、嫌だ。行きたくない。一緒にいたい。別れたくない。 ──笑顔を、せめて笑顔を憶えていてもらいなさい。 決戦の前に、そっと囁かれた言葉が思い出される。こうなることを、まるで予期していたかのように耳打ちされた聖美の一言。 ほんとにもう、玲子にもきょんちゃんにも。みんなにはかなわない。 向こうで呼ぶ声がする。鞠香は立ち上がり、震える笑みを香代に向けた。 「ごめんなさい、香代さん。でも、蘭丸様は今でも香代さんが大好きなんだよ。それだけは絶対疑っちゃダメだよ、そんなことでケンカしないでね」 それだけを言い残し走り去る。 涙が頬をつたう。ばいばい安土、月見野原、香代さん、蘭丸────。 鞠香がみんなの輪へ入っていくと、再び突風が襲う。 ダメだ、行きたくない。一緒にいたい。もっと一緒にいたい!!! 今にも飛び出して行きそうな鞠香の肩へ、聖美が腕を回し引き寄せてくれる。玲子がほほえんでくれる。 せめて振り向きたい。今振り向かなければ後悔する、絶対後悔する。もう一目だけでも。 振り向いた目に、膝をついたまま唖然と見つめる蘭丸が映る。 蘭丸!!! 泣かないと誓ったにも関わらずボロボロと涙を落とすみっともない自分。香代に見せてはならぬはずの顔。でも──! ふっと蘭丸の唇が緩み、あの夜の安らかな笑顔が表れた。 ザァァァァ………… 蘭丸と香代の前を、一陣の風が吹き抜ける。そこにもう姿はなく、風はよく世話をしてくれた宿屋の女将にありがとうとささやき、最後に月を背にそびえ立っている安土城を抱く野原を吹き抜けていった。今夜も咲くだろう一面の月見草のつぼみが、首をもたげて空を見上げる。 「まぁ、米俵が!!」 堂々たる米俵が置いてあった。究極の疲労と寝不足と戦った末、みんなで手に入れた一俵である。 風は安土を、飛鳥を、平行世界を吹き抜け、時空の狭間をも吹き抜けてゆく────。 |
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